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礼記-祭義[6]

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原文

文王之祭也。事死者如事生。思死者如不欲生。忌日必哀。稱諱如見親。祀之忠也。如見親之所愛。如欲色然。其文王與。詩云。明發不寐。有懷二人。文王之詩也。祭之明日。明發不寐。饗而致之。又從而思之。祭之日。樂與哀半。饗之必樂。已至必哀。

書き下し文

文王の祭るや、死者につかへること生につかへるが如く、死者を思ふこと生を欲せざるが如し。
忌日は必ず哀しみ、いみなを称すればしんを見るが如くするは、祀りの忠なり。
しんの愛する所を見るが如き、色を欲すが如く然りとは、其れ文王か。
詩に云ふ、
明発めいはつまでねず、二人をおもふあり、と。
文王の詩なり。
祭りの明日、明発めいはつまでねず、きょうして之を致し、又た従ひて之を思ふ。
祭りの日、楽しみと哀しみ半ばす。
之をくれば必ず楽しみ、すでに至れば必ず哀しむ。

現代語訳・抄訳

古の聖王である文王がその亡き親を祭祀するに、これにつかへること生前と変わることなく、これを思慕すること己の生を欲せざるが如きであった。
忌日至れば必ず哀しみ、その名を呼べばありし日の姿に思いを馳せた。
これが祭祀の本質である。
その親の愛する所を見るに、まるで好色を好むが如く然りとは、この文王の至孝をいうのであろう。
だから詩経の小雅小宛篇にはこう詠われている。
明け方までねず、父母を懐かしむあり、と。
これは文王を詠ったものである。
祭りの日が明けても眠ることなく、ひたすら供物を以てもてなし、また父母を思慕して哀惜やまず。
祭りの日に楽しみと哀しみが半ばするというは、このように父母を迎えることのできる嬉しさに心躍るも、既に至れば死したる現実を思い出し、共に在ることの出来る時間の少なさに哀しみを覚えるからである。

出典・参考・引用
塚本哲三著「漢文叢書第17」258/360,早稲田大学編輯部編「漢籍国字解全書」第27巻193/330
関連タグ
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備考・解説

色を欲すが如く然りとは、自然な心情をいう。
美しきを美しいと感じて好むは人の当然の心である。
それと同じように、父母の愛するところを見て思いを致すは、孝なる者の抱く当然の心情であり、そこには少しの人為もない。
父母を懐かしんで眠ることができないのも、祭りの日に哀楽が半ばするのも、いずれも同じことである。

語句解説

文王(ぶんおう)
文王。周の武王の父で西伯とも呼ばれる。仁政によって多くの諸侯が従い、天下の三分の二を治めたという。
明発(めいはつ)
明け方。夜明け。
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