論語-学而[14]
原文
子曰。君子。食無求飽。居無求安。敏於事而慎於言。就有道而正焉。可謂好学也已。
書き下し文
[非表示]
子曰く、
君子、食に飽くるを求むる無く、居に安きを求むる無く、事に敏[1]にして言を慎み[2]、
学を好むと謂ふ可きのみ[5]、と。[6][7][8][9]
現代語訳・抄訳
孔子が言った。
君子たる者、その志は衣食に在らず。
事に当たって尽力し、その発するところを慎み、ひたすら道を求めて己を正す。
学ぶことを好むばかりである、と。
- 出典・参考・引用
- 久保天随著「漢文叢書第1冊」61-62/600,伊藤仁斎(維禎)述、佐藤正範校「論語古義」23-24/223
<< 前のページ | ランダム | 次のページ >> | |
備考・解説
古は徳行を以て学と為し、知識技能を芸と為す。
今は徳行を以て徳行と為し、芸を以て学と為す。
その弊や久し、故に道は絶えてわずかに有り。
天下の善士を以て未だ足らずと為す者、古人を尚論して正道に帰すべし。
これを有道に就くという。
道を求むる、何ぞ現生の者に留まるを得んや。
注釈
- 雙峰の饒氏
- 事を敏すの事、特に行事を指して言ふのみに非ず、凡そ学問
思辨 理を窮むるの事、皆な事なり。(雙峰の饒氏) - 朱子
- 言は多を得易し、故に敢へて尽さず。
行底は足らざるを得易し、故に須らく敏すべし。(朱子) - 陳新安
- 此の有道の字、有道の人を指す。
此れ人の身と道と一と為し、能く人と共に由る所の道に由る者なり。(陳新安) - 朱子
- 道は即ち理なり。
人の共に由る所を以て、則ち之れを道と謂ふ。
其の各條理有るを以て言ふときは、則ち之を理と謂ふ。(朱子) - 講述
- 学を好むとは、心を学に一にして其の他を知らず、身を学に終りて、
惟 れ日も足らずとするを謂ふ、是れなり。(講述) - 朱子
- 安飽を求めざる者は、志の在る有りて及ぶに
暇 あらざるなり。
事を敏する者は、其の足らざる所を勉むる者、敢へて其の余り有る所を尽さざるなり。
然も猶ほ敢へて自ら是とせずして、必ず有道の人に就きて、以て其の是非を正すは、則ち学を好むと謂ふ可し。
凡そ道と言ふ者は、皆な事物当然の理、人の共に由る所の者*1を謂ふなり。(朱子) - 陳新安
- 中庸に曰く、
足らざる所有れば、敢へて勉めずんばあらず、余り有れば敢へて尽さず、と。
集註、敢へて此れを訓ず。(陳新安) - 尹焞
- 君子の学、是の四者を能くするは、
篤志 力行の者と謂ふ可し。
然れども正を有道に取らざれば、未だ差 ひ有るを免れず。
楊墨 が如き、仁義を学びて差 へる者なり。*2
其の流、父を無みし君を無みするに至る、之を学を好むと謂はば、可ならんや。(尹焞) - 伊藤仁斎
- 此れ君子の学を務めざる可からざるを言ふなり。
夫れ学を好むの益は、小人在りても猶ほ大と為す、況や大位に居り大事を執る者に在りてをや。
故に学を好むを以て、君子の美称と為す。
今ま夫れ安飽を求めずして、其の言動を慎むときは、則ち固 に美とす可し。
然れども学最も講じ難くして、道最も差 ひ易し。
苟くも心を師とし自ら用 て有道の人に就きて正さざれば、則ち是非取捨も涇渭 する所無く、殆 ど其の一生を誤る者多し。
故に必ず有道に就きて正し、而る後に学を好むと謂ふ可きなり。(論語古義)
語句解説
- 篤志(とくし)
- 一心に志すこと。専心。篤い志。
- 楊墨(ようぼく)
- 個人主義的な為我主義を説いた楊朱と博愛の精神を主とする兼愛主義を説いた墨子のこと。
- 涇渭(けいい)
- 清濁。涇と渭はともに川の名前。涇水は清流、渭水は濁流であることから。
<< 前のページ | ランダム | 次のページ >> | |
- *1論語雍也篇「子曰く、誰か能く出づるに戸に由らざる。何ぞ斯れ道に由ること莫けんや、と。」
- *2楊朱の説は義に近いが己に偏して公を失い、墨子の説は仁に近いが節操無くして甚だし。