論語-学而[13]
原文
有子曰。信近於義。言可復也。恭近於禮。遠恥辱也。因不失其親。亦可宗也。
書き下し文
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有子曰く、
信、義に近づけば、言を
恭、禮に近づけば、恥辱[2]に遠ざかる。[3]
因りて其の親を失はざれば、亦た宗とす可きなり[4][5][6]、と。[7][8][9]
現代語訳・抄訳
信が義に近づけば道理に外れず、恭が禮に近づけば恥辱に遠ざかる。
そのようにしてその親を失うことがなければ、また祖宗の志に適うというべし、と。
- 出典・参考・引用
- 久保天随著「漢文叢書第1冊」59-61/600,伊藤仁斎(維禎)述、佐藤正範校「論語古義」23/223
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備考・解説
信は人+言。
言は違わざることを約して神前に供え、神意の降下をまつこと。
神意の至るを待つ人は敬い慎んで侍し続ける、そのようなあり方を「信」という。
義は自分が心からそうでなくてはならぬとするところ。
信が義に近づくとは、敬慎して侍するのは心の底からそうあろうと欲し願うところであるということ。
そのような姿は神意に適うから、言、つまり神意の降下を待つに足る。
なお、敬慎せざる義であれば、それは私心に蔽われているものであり、義にあらざる敬慎もまた形の上だけのものに過ぎず、いずれも言を待つには足らぬものである。
恭は恭敬の恭で、うやまいつつしむところをいい、禮は所謂、節操である。
恭が禮に近づくは、近思録の「恭とは私に恭を為す恭なり、禮とは體に非ざる禮にして、是れ自然底の道理なり」が分かりやすい。
恭が禮に遠ければ、私に恭を為す恭であり、禮に近づけば自然な恭である。
人為に非ずして自ずから然るところの恭は心地よい、故に恥辱に遠ざかる。
親は多く父母をいうが、恐らくは祖先をも指すであろう。
また、伊藤仁斎が述べるように、人情の部分を多分に含む。
宗は祖宗であるが、同時に
孝経に詩経の一節「
故に有子は、信義で受け継ぐことをいい、恭禮で失わざることをいい、そうであれば祖宗に同じることが出来るという。
同ずるとは、先に述べたように先祖子孫が一であるということであり、それは己一個の存在ではなく、永遠に生きる、ということである。
親を失うことなしとは何ぞや。
孝経は、その身を全くするを以て孝の始めと為し、道理に外れずして父母を顕すを以て孝の終りと為す。
されば親を失わずとは親に親しみ
故に曰く「宗廟を敬するに致るは、
また曰く「夙(つと)に興き夜(よわ)に寐(い)ぬ、爾(なんじ)の所生を忝(はづか)しむること無かれ*7」と。
注釈
- 存疑
- 言可復は、信を失はざるなり、工夫全て約信の時に有り。
若し信、義に近づかずして、其の信を守らんと欲せば、則ち是れ不義なり。(存疑) - 蒙引
- 恥は内より生じ、辱は外より至る。(蒙引)
- 朱子
- 恭は凡そ敬を致す、皆な恭なり。
禮は則ち其の異を辨 ず。
若し上大夫と接して下大夫の恭を用ひるは、是れ及ばざるなり。
下大夫と接して上大夫の恭を用ひるは、是れ過ぎるなり。
過と不及とは必ず辱を取る。(朱子) - 蒙引
- 因は是れ暫時、宗は是れ久計、因の関する所の者は少にして、宗の関する所の者は大なり。
因は是れ始めの事、宗は是れ後来の事。(蒙引) - 燃犀解
- 始め相ひ
比附 するを因と曰ふ。
肝膽を輸 す可きを親と曰ふ。
終に之を以て典と為るを宗と曰ふ。*1(燃犀解) - 演
- 因は是れ人と交を論ずるの始め、宗は是れ身を終るまで帰依す。
譬 へば我れ今日偶然遇ふが如き、若し個れ好人ならば、便ち是れ因ること其の親を失はず、這個 の人就きて吾が身を終るまで師法と為す可し。
便ち是れ宗とす可きところ。(演) - 朱子
- 信は言を約するなり、義は事の宜しきなり、復は言を
踐 むなり、恭は敬を致すなり、禮は節文なり、因は猶ほ依のごときなり、宗は猶ほ主のごときなり。
言、信を約して其の宜に合ふときは、則ち言必ず踐む可し。
恭を致して其の節に中 るときは、則ち能く恥辱に遠ざかる。
依る所の者、其の親しむ可きの人を失はざれば、則ち亦た以て宗として之を主とす可し。
此れ言は人の言行交際、皆な当に之れ始めを謹みて、其の終る所を慮るべし。*2
然らずんば則ち因仍 苟且 の間、将に其の自失の悔に勝へざる者有らんとす。(朱子) - 蒙引
因依 は或ひは邂逅 の間、或ひは事を共にするの際、皆な因る処有り。
此の依の字は、是れ依帰の依にあらず。
宗は乃ち是れ依帰なり。
依は只だ是れ偶然の依倚 なり。(蒙引)- 伊藤仁斎
- 禮義は人の
大閑 *3にして、百行 の法を取る所なり。
故に大人 の言は必ずしも信ならず、行は必ずしも果ならず、唯だ義の在る所のままなり。*4
所以 に信、義に近くして然る後に其の言を復 む可し。
恭にして禮無ければ則ち労す、慎みて禮無ければ則ち葸 る。*5
所以 に恭、禮に近くして然る後に恥辱に遠ざかる。
苟くも能く此の如くなれば、則ち固 に善と謂ふ可し。
然れども硬く守り堅く執りて、人情に近からざれば、則ち亦た未だ至れりと為さざるなり。
故に此の質有るに因りて、亦た能く人と交はり、其の親を失はざれば、則ち其の学問之れ熟し、道徳之れ成る。
既に守る所有りて、亦た能く容るること有り、亦た宗す可き所以なり。
前章の、禮は之れ和を用 て貴しと為す、と語意相ひ同じ。(論語古義)
語句解説
- 有若(ゆうじゃく)
- 有若。春秋時代の魯の人。字は子有。孔子の門弟で容貌が孔子に似ていたとされる。孔子家語弟子解篇には強識にして古道を好むと記されている。
- 比附(ひふ)
- 相親しむ。近づき親しむ。つきあわせる。
- 這個(しゃこ)
- 這箇。この、これ。
- 因仍(いんじょう)
- 従来のしきたりによること。仍(じょう)はよる、したがう意。
- 苟且(こうしょ)
- その場かぎりの間に合わせ。一時逃れ。かりそめ。なおざり。
- 因依(いんい)
- よりあう。たよりあうこと。
- 邂逅(かいこう)
- めぐりあうこと。思いがけなく出会うこと。
- 依倚(いい)
- よりかかること。たよること。倚にはもたれる意がある。
- 大人(たいじん)
- 有徳者。また、君主、家長などの代表とする責任者の地位にいる者を指す場合もある。
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- *1典は則る道の如き。
- *2書経太甲下篇「終りを始めに慎む」。孔安国「始めに於いて終りを慮り、終りに於いて始めを思ふ」
- *3閑はのり、常則。閑は閑静のように、多く世俗から逃れる様をいう。
- *4孟子離婁下。本物の人物は言に必ずしも信実を求めず、行に必ずしも結果を求めるわけではない。ただ義の赴くままに行くのである。
- *5論語泰伯篇。禮は節であり、和であり、故に禮あって自然である。禮のない恭しさは表面を飾って労するばかりであり、禮のない慎みは己無くして畏れるばかりである。
- *6祖先を尊ぶべし、その徳を継ぎて修め帰す
- *7朝夕勉めて研鑽す、汝の所生を恥ずかしむること無かれ