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酔古堂剣掃-醒部[96]

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原文

人生有書可讀。有暇得讀。有資能讀。又涵養之。如不識字人。是謂善讀書者。亨世間清福。未有過于此也。

書き下し文

人生書有りて読む可し。
暇有りて読むを得、有りて能く読み、又た之を涵養す。
字をらざる人の如くんば、是れ善く書を読む者と謂ふ。
世間の清福をくること、未だ此れに過ぐるは有らざるなり。

現代語訳・抄訳

人と生まれたからには書を読むべきである。
暇をみつけては読み、余裕ができればよく読み、そして自らのものとするのである。
読みて読まざる人の如くであれば、これを善く読む者という。
世間の清福をうけること、いまだこれに過ぎたるはなし。

出典・参考・引用
塚本哲三編「酔古堂劒掃・菜根譚」29/315,笹川臨風(種郎)校「酔古堂剣掃訳註」29/385
関連タグ
酔古堂剣掃
陸紹珩
古典
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備考・解説

字を識らざる人は二通りの解釈ができるかと思う。
ひとつは、今回解釈したように「読んで読まざるが如き者」。
老子の所謂「深く蔵して虚の如く、容貌は愚の如し」であり、礼記の所謂「これを修め、これを蔵し、これを息し、これに遊す」である。
もうひとつは、そのまま「字を知らざるが如き者」と採る。
字を知らざるとは、字句の解釈に陥らぬということである。
書の一字一句に拘らずして書全体を掴み、書に流れる精神を掴み、古人の所謂「手の舞い足を踏むを知らざるの心」に至るをいう。
いずれにしても、王陽明の所謂「滴骨血てきこつけつ*1」であって、述べるところは同じ。

注釈に曰く、清福は世俗の幸福に非ずして純粋至善の幸福なり、と。
前項68に曰く、清福は上帝の吝む所、而して忙に習へば以て福を銷す可し、と。

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  • *1学ぶの道は血族の骨に血が染み込む如くあるべきをいう


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