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范曄

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後漢書-列傳[卓魯魏劉列傳][44-46]

寛、簡略にして酒をこのみ、盥浴かんよくを好まず、京師けいし以為おもへらく諺なりと。
かつて座客、蒼頭そうとうを遣はして酒をはしむに、迂久うきゅうにして、大いに酔ひて還る。
客、之に堪へず、罵りて曰く、
畜産、と。
寛、須臾しゅゆにして人を遣はしてやつこを視るに、必ず自殺せんことを疑ふ。
左右を顧みて曰く、
此れ人なり、罵りて畜産と言ふ、はずかしいづれかこれより甚だしからん。
故に吾れ其の死を懼るるなり、と。
夫人、寛を試みていからしめんと欲し、朝会に当りて、装厳そうげんすでにおはるを伺ひ、侍婢をして肉のあつものを奉じ、ひるがへして朝衣をかんせしむ。
婢、あはてて之を収むに、寛の神色異ならず、乃ちおもむろに言ひて曰く、
あつものに汝が手はただれんか、と。
其の性度此の如し。
海内かいだい称して長者と為す。
後に日食を以て策免さくめんす。
衛尉を拝す。
光和二年、復た段熲だんけいに代りて大尉と為る。
在職三年、日変を以て免す。
又た永楽少府を拝し、光禄勲に遷す。
先じて黄巾の逆謀を策し、事を以て上聞するを以て、逯鄉侯六百戸に封ぜらる。
中平二年に卒す、時年六十六。
車騎将軍の印綬を贈る、位特進、謚を昭烈侯と曰ふ。
子松嗣ぎ、官は宗正に至る。
賛して曰く、
卓、魯は款款かんかんたり、情をつつしみ徳満る。
仁は昆蟲こんちゅうを感せしめ、愛は胎卵たいらんに及ぶ。
寛、霸は政に臨み、亦た優緩ゆうかんなりと称せらる。

現代語訳・抄訳

劉寛は無駄を退け簡略なるを旨とし、酒を嗜んだが湯浴みは好まなかった。
その様子を都の人々は諺にしたとされる。
かつて酒席に訪れた客が兵卒に酒を買いに行かせたところ、しばらくしてその兵卒が酒に酔って帰って来た。
これに座客は大いに怒り、罵って云った。
畜産め、と。
劉寛はしばらくして罵られた兵卒の様子を見に行かせたが、今にも自殺しそうな様子であった。
そこで左右を顧みて云った。
人に対して畜産などと罵るとはなんという辱めであろうか。
吾は彼が死するのではないかと懼れるばかりである、と。
ある時、劉寛の夫人が劉寛の怒るところを見たいと思い、朝会の直前の衣裳も整えおわった頃を伺い、召使に肉のあつものを持たせて劉寛の朝衣にぶちまけさせた。
召使は慌てて片付けようとしたが、劉寛の顔色は常と変わることなく、おもむろに云った。
あつものでお前の手は大丈夫だったか、と。
劉寛の度量はこのように大なるものであったので、人々は長者であると称えた。
劉寛は後に日食のために免職とされ、やがて衛尉となった。
光和二年には再び段熲に代って大尉となったが、在職三年にして太陽に異変が起こったので免職とされた。
また永楽少府となり、光禄勲に昇進した。
後に黄巾の謀叛の計画を察知し、その事実を上奏したので逯鄉侯六百戸に封ぜられた。
劉寛は中平二年に卒した。
時に六十六歳であったという。
車騎将軍の印綬が贈られ、位は特進とされ、謚を昭烈侯とされた。
子の劉松が後を継いで、官は宗正にまで至った。
賛して曰く、
卓茂、魯恭は忠誠であり、情を謹しみ徳で満る。
その仁は虫をも感じさせ、その愛は胎卵にまで及ぶ。
劉寛、魏霸は政に臨み、優緩なりと称せられた。

出典・参考・引用
長澤規矩他「和刻本正史後漢書」(二)p630
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劉寛
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語句解説

盥浴(かんよく)
湯あみをすること。
京師(けいし)
都、天子の居。春秋公羊伝の桓九年に「京師とは天子の居である。京とは大、師とは衆、天子の居は必ず衆大の辞を以てこれを言う」とある。
蒼頭(そうとう)
青頭巾の兵士。兵卒。
迂久(うきゅう)
しばらくして。
須臾(しゅゆ)
しばらく、ほんのわずかの時間。
装厳(そうげん)
いかめしく身支度すること。
海内(かいだい)
国内、天下。古代中国では四方の海に世界が囲まれていると考えていたとされる。
策免(さくめん)
君命により免職されること。
款款(かんかん)
まごころのさま。忠誠。
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