1. 陸紹珩 >
  2. 酔古堂剣掃 >
  3. 醒部 >
  4. 73
  5. 74
  6. 75
  7. 76
  8. 77
  9. 78
  10. 79
  11. 80
  12. 81
  13. 82
  14. 83
  15. 84
  16. 85
  17. 86
  18. 87
  19. 88
  20. 89
  21. 90
  22. 91
  23. 92
  24. 93

酔古堂剣掃-醒部[83]

このエントリーをはてなブックマークに追加

原文

佛只是箇了。仙也是箇了。聖人了了。不知了。不知了了。是了了。若知了了。便不了。

書き下し文

ふつは只だ是れ箇了かりょうし、せんた是れ箇了かりょうす。
聖人は了了りょうりょうにして、了を知らず、了了たるを知らずして、是れ了了たり。
し了了たるを知らば、便ち了たらざらん。

現代語訳・抄訳

仏は解脱に至り、仙人もまた無境に至る。
聖人は天理を求めて天に至るも天を知らず。
天理を求めて天に至りたるを知らずして、天理を得る。
もし、天理を求めて天に至りたるを知らば、どうして天理を得るだろうか。

出典・参考・引用
塚本哲三編「酔古堂劒掃・菜根譚」27/315,笹川臨風(種郎)校「酔古堂剣掃訳註」26/385
関連タグ
酔古堂剣掃
陸紹珩
古典
<<  前のページ  |   ランダム   |  次のページ  >>

備考・解説

了は大悟、心にすっと落ちて洞然たるが如し。
箇は計数の意、故に箇了は了せんとして了すことであろう。
了了は、道元の所謂「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり」の悟上に得悟するをいう。
そして了了にして了を知らずとは、道元の所謂「萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし」をいう。
要はそれそのままで一、大自然そのまま、万物一体ということである。
道元は続けて「佛道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり」と記す。
これは、了了たるを知れば了ではない、ということである。
悟る悟らないの境に居る間は、悟ることはない。
生死の間に居る間は、生きることはない。
本当の生とは、生死そのままである。
本当の悟とは、迷悟そのままである。
悟上に得悟する、ということもない。
もうありのままである。
だから道元は「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず」という。
だって、ありのままなのだから、覚知するも何もないのである。
生死を分ち、迷悟を分ち、諸仏衆生を分つ。
それは人の所為に過ぎない。

<<  前のページ  |   ランダム   |  次のページ  >>

関連リンク

聖人
人格高潔で生き方において人々を感化させ模範となるような人物。過去…
狭義では空の上の天上。思想としては世界を統べる法則そのもの。不変…
道元
日本曹洞宗の開祖。1200-1253年。比叡山で天台宗を学び、建仁寺で禅…


Page Top