酔古堂剣掃-法部[92]
原文
能輕富貴。不能輕一輕富貴之心。能重名義。又復重一重名義之念。是事境之塵氣未掃。而心境之芥蔕未忘。此處抜除不淨。恐石去而草復生矣。
書き下し文
能く富貴を軽んじて、一の富貴を軽んずるの心を軽んずる能はず、能く名義を重んじて、又た
此の処、
現代語訳・抄訳
よく富貴なることを軽んずるにも関わらず、その富貴を軽んずる心を軽んずることが出来ず、よく名義を重んずるも、その名義を重んずるの心を重んじてしまうのは、いうならば世俗の
この処をとり除いて
- 出典・参考・引用
- 塚本哲三編「酔古堂劒掃・菜根譚」213/315,笹川臨風(種郎)校「酔古堂剣掃訳註」342/385
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備考・解説
富貴なること自体は己の所有ではなく、自分自身の価値とは何の関わりもない。
故に富貴を軽んずるは妥当なことなれども、その軽んずるという心自体を抱くのは既に富貴に捉われているということであって、本物なれば、富貴貧賤それ自体を意に介さぬようでなければならない。
名義(名誉、義理)もまた同様である。
名義を重んずるは人として妥当なれども、重んずるということを重んずるようでは既に名義に捉われて自然ではない。
故に名義を重んずるということ自体なくして、名義と己が一にならねばならない。
そうであって初めて素行自得であり、自由自在の至りといえる。