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熊沢蕃山

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孝経小解-諌諍[2]

争は諌なり、其の非に従はずして諌め止むるは、争ふがごとし。
無道は、君、道を異にするごとに、しん諌め、争ふときは、失すといへども、甚だしきに至らず、故に危亡きぼうを免るるなり。
七、五、三、皆な陽数なり。
諌争かんそうの臣は陽剛ようごうの忠臣なり。
陽剛の才は必ず明敏なり、数にかかはるべからず。
又た、下として上をせんせず、自然の分ちあることを示し給ふ言外の意なり。
伝に云はく、
天子に争臣七人有り、云々。
昔殷王、百姓を残賊ざんぞくし、天道を絶逆ぜつぎゃくす。
然れども亡びざる所以の者は、其れ箕子きし比干ひかんを以ての故なり。
微子びし之を去り、箕子とらはるに因りてと為り、比干諌めて死し、然る後、周、兵を加へて之を誅絶ちゅうぜつす。
諸侯に争臣五人有り、云々。
呉王夫差ふさ、無道を為す、然れども亡びざる所以の者は、伍子胥ごししょ有っての故なり。
子胥、死後三年、越、乃ち能く之を攻む。
大夫に争臣三人有り、云々。
李氏、無道を為し、天子をせんせしむ、然れども亡びざる者は、冉有ぜんゆう季路きろを宰相と為すを以てなり、と。
故に、諤諤がくがくの争臣有る者、其の国さかんなりと曰ひ、黙黙の諛臣ゆしん有る者、其の国亡ぶと曰ふ。

士は小身なれば、争臣ありがたし。
心友ありて争ふときは、士の善名を失はざるなり。

父に争ふ子あるは、上下貴賎に通じていへり。
争ふ子は善子なり、子に善人あるときは、父、無道なりと雖も、不義の罪に陥らざるなり。

出典・参考・引用
中江藤樹訳、熊沢蕃山(伯継)述「孝経」67-68/88
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語句解説

僣(せん)
おかす、たがう、そしる。僭越(せんえつ)等で用いられるように、主にその節度を破ることをいう。
紂王(ちゅうおう)
紂王。殷の三十代皇帝で暴君の代表。帝辛。材力人に過ぎ勇猛であったが無道にしてその治世は乱れ、周の武王によって滅ぼされた。
残賊(ざんぞく)
きずつけたり殺したりすること。道義にはずれた乱暴。
箕子(きし)
箕子。殷の紂王の叔父。殷の三仁の一人。紂王を諫めるも聞き入れられず、故に狂人を装ったところ幽閉された。後に箕子朝鮮を立てたとされる。
比干(ひかん)
比干。殷の忠臣。殷の三仁の一人。紂王の叔父で、紂王の暴政を諫言して殺された。
微子啓(びしけい)
微子啓。殷の紂王の腹ちがいの兄。紂王の暴虐を諫めるも聞き入れられず国を去ったという。殷滅亡の後、殷の旧領の一つを与えられ宋に封ぜられた。
夫差(ふさ)
夫差。春秋時代の呉王で、春秋五覇の一人に数えられる。越王勾践(こうせん)を会稽に破り捕らえるも、策略に踊らされて解放し、後の戦いで勾践に敗れて自刃。臥薪嘗胆の故事は有名。
伍子胥(ごししょ)
伍子胥。春秋時代の呉の重臣。名は員。孫武と共に呉王・闔閭を補佐。その名は天下に轟き、呉は躍進を遂げ隆盛したが、夫差の代となり讒言によって死す。
李孫氏(りそんし)
春秋時代の魯において、三桓氏と呼ばれていた有力大夫の一つ。代々司徒の職に就き、実権を握っていたという。
冉有(ぜんゆう)
冉有。春秋時代の政治家。字は子有。孔門十哲の一人で政事に優れると評された。
子路(しろ)
子路。春秋時代の魯の学者。仲由。孔門十哲の一人。政事にも優れ直情にして勇あり。魯や衛に仕えたが最期は衛に乱が起り非業の死を遂げた。
諤諤(がくがく)
権勢を恐れることなく、自らの正しいと信ずるところを直言すること。
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