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曾先之

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十八史略-東漢[世祖光武皇帝][岑彭]

十二年、公孫述亡ぶ。
述は茂陵もりょうの人、更始こうしの時より、蜀に拠って帝と称し、国を成と号す。
、既に隴右ろうゆうを平げて曰く、
人自ら足れりとせざるを苦しむ、既に隴を得て復た蜀を望む、と。
大司馬呉漢等を遣はし、兵をひきひて、征南大将軍岑彭しんほうに会して蜀を伐たしむ。
彭、荊門けいもんに在りて戦船をよそほふ。
漢、之をめんと欲す、彭、不可とす。
上、彭に報じて曰く、
大司馬、歩騎を用ふるを習ひ、水戦はあきらかならず。
荊門の事は、一にだ征南公を重きと為すのみ、と。
彭、戦船をならべて進み、むかふ所は無前むぜん、述、ひそかに彭を刺殺す。
呉漢、継ぎて進み、成都に至り、撃ちて述を殺し、蜀の地をことごとく平らぐ。

現代語訳・抄訳

建武十二年に公孫述が亡んだ。
公孫述は茂陵の人で、更始帝の時から蜀の地で帝と称して国を成と号していた。
既に隴右の地を平定していた光武帝が嘆息して云った。
人は自ら満ち足りるということがなくて苦しむというが、我はすでに隴を得たのにも関わらず今度は蜀が欲しくなった、と。
そして、大司馬の呉漢等を派遣して征南大将軍の岑彭に合流させ、蜀の討伐を行なわせた。
岑彭は荊門で戦艦を準備した。
呉漢はこれに反対したが、岑彭が同意しなかったので、都に判断を仰いだ。
光武帝が返答して云った。
大司馬の呉漢は歩騎には習熟しているが水戦には慣れていない。
荊門における水戦に関しては征南大将軍の岑彭に一任するがよかろう、と。
岑彭は戦艦を率いて進軍し、向うところ敵無しであった。
これに恐れた公孫述は、密かに刺客を放って岑彭を暗殺した。
呉漢は岑彭の戦略をそのまま実行して成都に進軍し、公孫述を殺して蜀を平定した。

出典・参考・引用
早稲田大学編輯部編「漢籍国字解全書」(第36-37巻)187/306
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出典
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語句解説

公孫述(こうそんじゅつ)
公孫述。前漢末に巴蜀の地に覇を唱え、光武帝劉秀と最後まで覇権を争った群雄。虚栄心の強い人物として描かれる。
劉秀(りゅうしゅう)
劉秀。後漢の始祖。光武帝。文武両道、民衆に親しまれ、その治世は古の三代にも匹敵したとされる。名君の代表として有名。
呉漢(ごかん)
呉漢。後漢の武将。岑彭と共に公孫述を討ち蜀を平定。豪胆にして戦陣において顔色一つ変えなかったとされる。
岑彭(しんほう)
岑彭。後漢創業の功臣。用兵に巧みで敵から神業と嘆賞される。軍規を正し、略奪を一切行わなかった。
荊門(けいもん)
長江の南岸にある山の名前。その下にある長江の流れは激しく、難所の一つとされる。
無前(むぜん)
前無し。前に立ちふさがるものがないこと。無敵の意。
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