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曾先之

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十八史略-東漢[世祖光武皇帝][馬援.2]

ごうに謂ひて曰く、
子陽は井底の蛙のみ、而して妄りに自尊すること大なり、東方に専意するにかざらん、と。
囂、乃ちを使はして書を洛陽に奉ぜしむ。
初め到る、やや久しうして即ち引きて入る、殿廡でんぶの下より岸幘がんさくして迎へ笑ひて曰く、
卿、二帝の間に遨遊ごうゆうす、今卿を見るに人をして大にぜしむ、と。
援、頓首とんしゅして曰く、
当に今はだ君の臣を択ぶのみに非ず、臣も亦た君を択べり。
臣は公孫述と同県なり、わかくして相ひ善し。
臣、前に蜀に至る、述は陛戟へいげきして後に臣を進む、臣、今遠来せり、陛下何ぞ刺客姦人に非ざるを知りて、簡易なるの是の若くなるや、と。
帝笑ひて曰く、
卿は刺客に非ず、おもふに説客ならんのみ、と。
援曰く、
天下反覆はんぷくし、名字を盗める者のげて数ふ可からず。
今陛下を見るに、恢廓大度かいかくたいど高祖に同じうす、乃ち知る、帝王は自ずから真有るなり、と。

現代語訳・抄訳

蜀から戻った馬援は隗囂に復命して云った。
公孫述は井底の蛙のようなもので、妄りに権勢を誇るばかりで少しも周りが見えておりません。
東方の光武帝に意を注ぐほうが善いでしょう、と。
そこで隗囂は洛陽の光武帝のもとに馬援を遣わして書を奉じた。
馬援が洛陽に到ると、しばらくして迎え入れられて光武帝と面会した。
光武帝は御殿の廊下の下にまで出てきて頭巾を脱いで迎え、笑いながら云った。
貴方は隗囂、公孫述の二帝の間を往来していると聞く。
そんな貴方とお会いして、自分が二帝と比べて足らぬのではないかと思うと恥かしく感ずる、と。
馬援は頓首して云った。
今世において、君主は用いるべき家臣を択んで用いますが、家臣もまた仕えるべき君主を択んで仕えます。
私は公孫述と同郷であり、幼少よりの友人でありました。
されども私が蜀へと至ると、公孫述は護衛の兵士を列して私と会いました。
それが今日、遠方より来た私に陛下は手軽に会見なされております。
どうして私が刺客ではないと知るのでありましょうか、と。
光武帝は笑いながら云った。
貴方は刺客などではありません、私が思うに諸国を遊説する説客でありましょう、と。
馬援が云った。
今、天下は混乱し、帝の名を盗む者が多数でております。
されども、どれも大した違いはありません。
しかし今日、陛下にお会いしてその度量の大きさ、まるで高祖の如くに大きいものを感じました。
真の帝王というものは自ずから備わるものなのでありましょう、と。

出典・参考・引用
早稲田大学編輯部編「漢籍国字解全書」(第36-37巻)185/306
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十八史略
出典
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語句解説

隗囂(かいごう)
隗囂。前漢末の武将で、光武帝劉秀と覇権を争い隴西を拠点として勢力を得た。晩年、窮地に陥り公孫述に臣従して光武帝と対抗するも病死。死去の一年後に勢力は滅亡した。
公孫述(こうそんじゅつ)
公孫述。前漢末に巴蜀の地に覇を唱え、光武帝劉秀と最後まで覇権を争った群雄。虚栄心の強い人物として描かれる。
馬援(ばえん)
馬援。後漢の名将。辺境討伐に功あり。年老いて後も戦場に在ることを求め戦陣にて病没した。「老いてはますます壮んなるべし」などの言葉を残している。
劉秀(りゅうしゅう)
劉秀。後漢の始祖。光武帝。文武両道、民衆に親しまれ、その治世は古の三代にも匹敵したとされる。名君の代表として有名。
殿廡(でんぶ)
御殿のひさし。御殿とそこについている廊下。
岸幘(がんさく)
岸巾。頭巾をぬいで前額をあらわすこと。
遨遊(ごうゆう)
気ままに遊び暮らすこと。
頓首(とんしゅ)
頭を地面に打ちつけるようにしてする敬礼のこと。後に上表や書簡の最後につけて敬意を表すことばになった。
陛戟(へいげき)
宮殿の階段の下で戟を持った兵士が護衛すること。また、その兵士を指す。
恢廓大度(かいかくたいど)
心がひろく度量の大きいこと。
劉邦(りゅうほう)
劉邦。前漢の始祖。秦を滅ぼし、項羽と天下を争う。野人なれども不思議と人が懐き、「兵に将たらざるも、将に将たり」と称せられた。
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