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范曄

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後漢書-紀[光武帝紀上][18-21]

更始、侍御史を遣はし節を持して光武を立て蕭王しょうおうと為し、ことごとく令して兵をめ行在所に詣でしむ。
光武、河北の未だ平らかならざるを以てし、に就かず。
是れより始めて更始とたがふ。
是の時に長安政乱して、四方背叛はいはんす。
梁王劉永は命を睢陽きようほしいままにし、公孫述は巴蜀に王を称し、李憲は自立し淮南王と為り、秦豊は自ら楚の黎王れいおうと号し、張歩は琅邪ろうやに起ち、董憲は東海に起ち、延岑は漢中に起ち、田戎は夷陵に起ち、並びに将師を置き、郡県を侵略す。
又た別号の諸賊、銅馬、大怙、高湖、重連、鐵脛、大搶、尤來、上江、青犢、五校、檀郷、五幡、五樓、冨平、獲索等、おのおの部曲を領す、衆、合はせて数百万人、在る所を寇掠こうりゃくせり。
光武、将に之を撃たんとし、先づ呉漢りて北の十郡の兵を発す。
幽州の牧苗曾びょうそ、従はず、漢、遂に曾を斬りて其の衆を発す。
秋、光武、きょうに於いて銅馬を撃つ、呉漢、突騎をひきひ来たりて清陽に会す。
賊、しばしば挑戦す、光武、営を堅くし自守す、出でて鹵掠ろりゃくする者有らば、たちまちに之を撃ちて取り、其の糧道を絶つ。
月に余日を積む、賊の食尽く、夜にのがれ去る、追ひて館陶かんとうに至り、大ひに之を破る。
降を受て未だ尽きず、而して高湖、重連、東南り来たる、銅馬の余衆と合す、光武、復たとも蒲陽ほように於いて大戦す、ことごとく之を破り降る、其の渠帥きょすいを封じ列侯と為す。
降者、猶ほ自安じあんせず、光武、其の意を知り、ちょくして各を営に帰して兵をろくせしめ、乃ち自ら軽騎に乗りて部陳ぶちん按行あんこうす。
降者、更に相ひ語りて曰く、
蕭王、赤心を推して人の腹中に置く、いづくんぞ死を投ぜざるを得んや、と。
是に由りて皆な服す。
ことごとく降人をひきひて諸将に分配す、衆遂に数十万、故に関西は光武を号して銅馬帝と為す。
赤眉の別師の大怙、青犢は十余萬の衆とともに射犬に在り、光武進みて撃ち、大いに之を破る、衆皆な散走す。
呉漢、岑彭しんほうをして襲はしめ謝躬をぎょうに於いて殺さしむ。
青犢、赤眉の賊、函谷関に入りて、更始を攻む。
光武、乃ち鄧禹とううを遣はして六裨將ひしょうを率ひ兵を引いて西せしめ、以て更始、赤眉の乱に乗ず。
時に更始、大司馬の朱鮪を使はし、舞陰王李軼等を洛陽に屯せしむ、光武亦た馮異ふういをして孟津を守らしめ以て之を拒む。

現代語訳・抄訳

更始帝は侍御史に使者の印を持たせて劉秀のもとに遣わし、蕭王に封じ兵を解散させて任地へと向かわせようとした。
だが、劉秀は河北が未だ平定されていないことを理由にこれを拒否し、命令に従わなかった。
こうして更始帝と劉秀は互いに反目し始めた。
この頃、更始帝の政治は乱れて、各地で独立する者が続出した。
睢陽では梁王の劉永が好き勝手に命を発し、巴蜀では公孫述が王を称し、李憲は自立して淮南王となり、秦豊は自ら楚の黎王と号し、琅邪では張歩が、東海では董憲が、漢中では延岑が、夷陵では田戎が起って軍隊を整備し、各地を侵略した。
その他にも銅馬や青犢、赤眉をはじめとする様々な賊軍が蔓延ってその数は合わせて数百万にも上り、近隣から略奪を繰り返していた。
そこで劉秀は諸賊の討伐に乗り出し、呉漢に命じて河北の十郡から兵を募った。
この時、幽州の牧である苗曾が従わなかったので、呉漢はこれを切り捨てて兵権を得、賊の攻略に向かった。
秋になり、劉秀がきょうにおいて賊軍の銅馬を攻め、呉漢は騎馬隊を率いて駆けつけて清陽で合流した。
賊軍は何度も劉秀の軍に挑んだが、劉秀は陣を堅く守り、賊が略奪しようとすると直ちに撃って出てこれを防ぎ、その糧道を絶って持久戦に持ち込んだ。
一月と数日が経った頃、兵糧の尽きた賊軍が夜に紛れて逃げ出したので、劉秀はこれを追撃して大勝した。
降伏する将兵が未だ尽きぬ間に、高湖、重連の賊軍が東南から駆けつけて銅馬の賊軍と合流し、劉秀に挑んだ。
劉秀は蒲陽において戦って大いに破り、捕らえた賊の首領達に領地を与えて列侯とした。
降伏した多くの将兵は劉秀を信用できず不安な面持ちであった。
これを察した劉秀は、降伏した者達をそれぞれの営舎に帰して兵権を持たせ、その後に自ら軽装のままで各部隊を巡察した。
この様子を見て降伏した者達は互いに語って云った。
蕭王は赤心を推して人の腹中に置くが如くに我々と接してくれる。
この方のためにどうして死力を尽さずにいられようか、と。
こうして皆が劉秀に心服した。
劉秀は降伏した将兵を各部隊に配分したので、その数は数十万にもなった。
劉秀の軍は銅馬の投降兵で大半が占められ、故に長安の更始帝は劉秀を称して「銅馬帝」と呼んだ。
赤眉軍の別軍である大怙及び青犢軍は十余万の大軍を以て射犬に在ったが、劉秀が進軍してこれを撃ち破ると射犬の賊軍は散走した。
また、呉漢と岑彭に命じてぎょうにいる謝躬を攻めさせて殺した。
しばらくすると、青犢軍と赤眉軍は函谷関から侵略を開始し、更始帝を攻めた。
そこで劉秀は鄧禹に六名の副将を従わせて兵を西進させ、更始帝と赤眉との争いに乗じた。
この時、更始帝は大司馬の朱鮪を使わして舞陰王李軼等を洛陽に駐屯させていた。
更始帝は同様の要請を劉秀にしたが、劉秀は馮異を孟津に込めてこれを拒否した。

出典・参考・引用
長澤規矩他「和刻本正史後漢書」(一)p23-25
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語句解説

劉秀(りゅうしゅう)
劉秀。後漢の始祖。光武帝。文武両道、民衆に親しまれ、その治世は古の三代にも匹敵したとされる。名君の代表として有名。
徴命(ちょうめい)
朝廷からの召し出しの命令。
公孫述(こうそんじゅつ)
公孫述。前漢末に巴蜀の地に覇を唱え、光武帝劉秀と最後まで覇権を争った群雄。虚栄心の強い人物として描かれる。
延岑(えんしん)
延岑。後漢初期の群雄の一人で、後に公孫述の配下となる。用兵に優れ、「男児当に死中に生を求むべし」との言を残した。
部曲(ぶきょく)
郷村の組織。軍の部隊。また、私有の軍。
寇掠(こうりゃく)
侵略して掠奪すること。
呉漢(ごかん)
呉漢。後漢の武将。岑彭と共に公孫述を討ち蜀を平定。豪胆にして戦陣において顔色一つ変えなかったとされる。
鹵掠(ろりゃく)
奪うこと。掠め取ること。
渠帥(きょすい)
悪党の首領、賊の頭。
自安(じあん)
満足すること。
勒(ろく)
馬の口にくわえさせる金具。馬を制御するためのもの。転じて軍列を整えること。
部陳(ぶちん)
兵の隊列。
按行(あんこう)
巡察の意。または列を整えること。
岑彭(しんほう)
岑彭。後漢創業の功臣。用兵に巧みで敵から神業と嘆賞される。軍規を正し、略奪を一切行わなかった。
鄧禹(とうう)
鄧禹。後漢建国の功臣で雲台二十八将の筆頭。温順篤行で人物眼に優れ、挙用するところ皆なその場を得たという。
裨将(ひしょう)
副将。補佐官。大将をたすける将官。
馮異(ふうい)
馮異。後漢建国の功臣。光武帝には「恩は父子の如し」と称せらる。謙虚にして誇らず、諸将が功を論ずる際には常に樹の下に座って加わらなかったことから士卒に「大樹将軍」と呼ばれ親しまれたという。
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