孫武
孫子-行軍[4]
近くして静なる者は、其の険を恃むなり、遠くして戦を挑む者は、人の進むを欲するなり。
其の居る所の易き者は、利あればなり。
衆樹の動く者は、来たるなり、衆草の
鳥の
散じて
辞の卑しくして備へを益す者は、進むなり、辞の強くして進み
軽車先づ出で其の側に居る者は、陣するなり。
約無くして和を請ふ者は、謀するなり。
奔走して兵を陣する者は、期するなり、半ば進み半ば退く者は、誘ふなり。
鳥の集まる者は、虚なり、夜に呼ぶ者は、恐るるなり。
軍を
馬を殺し肉を食らふ者は、軍に
先に暴して後に其の衆を畏るる者は、
来たりて
兵怒りて相ひ迎へ、久しくして合はず、又た相ひ去らざるは、必ず謹みて之を察せよ。
現代語訳・抄訳
近くに陣して静なる者は、その陣する所の険を恃みて我の攻め来るを待つ者であり、遠くに陣して戦を挑む者は、我を誘い出して謀らんと欲する者である。
このように居るところ易くして我を待つ者は、利あるが故なるを思うべし。
周りの木々が動かば、敵の来たるを察し、草木が鬱蒼と茂らば、敵の伏兵を疑うべし。
鳥が飛び立ち騒ぐは、その下に伏兵有り、獣が飛び出し来たるは、山林より敵兵の来たる有り。
砂ぼこりの舞うこと高くして鋭き者は、戦車の多きを示し、舞うこと低くして広き者は、徒歩の多きを示す。
砂ぼこり散じてすじ道あらば、材木を採取していることを示し、舞うこと少なくして往来するようになれば、軍塁を造営していることを示す。
使者来たりて下手に出るも備えを増強するようであれば、安心させてその虚を撃たんとの心あり、使者来たりて強きに出でて盛んに兵を進めんとする者は、恐れさせてその間に退かんとの心あり。
戦車を出して傍らで備えさせている者は、その場に陣取るの心あり、期日を約さずして和平を致さんとする者は、謀る心のあるを知るべし。
奔走して兵を陣列させる者は、
兵具を杖とする者多ければ、飢えるを示し、水を汲みて争い飲む者多ければ、水の枯渇するを示し、利あるを見るも進むを知らざれば、疲弊していることを示す。
敵陣に鳥が集まり留まるあれば、敵兵の居らざるを示し、夜に呼びかけ合いて静ならざるは、不安に駆られて士卒の心穏やかならざるを示す。
軍の乱れて規律の有らざるは、将の威厳足らざるを示し、合図の旗が妄りに動きて定まらざるは、備えの乱れるを示し、下司将校の怒ること多き者は、士卒の倦みて従わざるを示す。
軍馬を殺してその肉を食らうは、軍に糧食無くして生きながらえんとの心あり、食器を外に棄てて陣に戻らざれば、死を決意して来たるを思うべし。
同じ事をしつこく言う者は、人望を失い、賞を多くして心を繋がんと欲する者は、余裕を無くし、罰を多くして威厳を保たんと欲する者は、困窮す。
先に暴を以て士卒の心をねじ伏せながら、後になって士卒の離散するを畏れるは、人を使うの道に通ぜざるの至りである。
使者来たりて自らの過を認めて謝する者は、休息して力を充足せんと欲するのみ。
敵兵の怒りて寄せ来たるに、久しく対陣するに及び、また退却することもなければ、謀あるを思うべし。
必ず謹みてこれを察せねばならない。
- 出典・参考・引用
- 山鹿素行注・解「孫子諺義」128-134/183
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備考・解説
山鹿素行曰く、
敵の陣、我に近きときは、戦ひ挑むべきの地なり。
而して静なるは、地形に堅固あるが故に、これを恃みて動かざるなり、と。
山鹿素行曰く、
易は兵士安逸の體なり、利とは地形を利し、或ひは後責を待ち、或ひは味方の内に裏切りの約あるを待つ、皆な是れ利するなり。
静と云ふは易と同じからず、静は待ちて動かざるなり、易は陣を安んじ居るを云へり。
又た云ふ、易は地利を平易ならしめ、ささわりなく険をたいらげ、衆草をきりはらふて、平易ならしむるを云へりと。
下文に障多きの句に引き合はするときは、此の説も亦た通ず、と。
山鹿素行曰く、
衆樹動揺の體みへば、彼れ押し来ると云ふべし。
大軍の押し来るには木を斬り道をあけることもあり、然らずとも衆の進み来ること、衆樹にささわるが故に動揺するを云へり。
又た云ふ、動は震動鳴動の心にして、衆樹に声あって震動いたすをも云へり。
障多きとは草を結し、けりをこしらへて障所多きを云へり。
云ふ心は、平易の地にわざとささわりを設くるなり。
疑は我を疑はしむるなり。
或ひは云ふ、衆草の障多きの地は、疑ひて伏を索るべしと。
此の説、伏姦の地と相ひ同じ、然れば前説を以てまされりとするなり、と。
山鹿素行曰く、
伏は小勢をかくしおくことなり、覆は大軍をかくすを云へり。
小勢を伏におくは、多くは草野麦畠、藪たたらすすきかぶを象りて、少しのささわりにかくして、其の不意をうつことなり。
大軍をかくすことは、必ず山林にたよらざればかくすこと叶はざるものなり。
この故に鳥起ると云ふは、平野に伏あることをいへり、獣
然れども、鳥起ると云ひ、獣
旧説皆な云ふ、覆なる者は我が軍を覆するなりと。
云ふ心は、彼ひそかに兵をまわして我を襲ふを覆と云ふ。
故に山林草木の中、野獣驚き出でるは、敵兵を山中へまわすなりといへり。
是れ又た大伏を用ふるの心なり。
大伏は或ひはまわし備へをいたして其の後に出、うらを打つことに用ゆるなり。
尤も其の往来の道に覆することも之れ有るなり。
或ひは云ふ、講義に伏は則ち其の人少し、覆は則ち其の人
此の説未だ何に由る所なるを知らず、然れども鳥起り獣
山鹿素行曰く、
高卑散少。
此の四句発端、塵の字を措きて説き来たらば、則ち皆な揚塵の形を
以上、塵を以て敵を
山鹿素行曰く、
使者の往来は戦場の通法なり。
其の使の言をきき、其の敵の位をみること、敵を
故に辞と形を考へて其の実不実を知るなり。
備へとは前段に之れ出でる如く、人衆のことに限らず、其の用法設けをいへり、と。
山鹿素行曰く、
凡そ強き者は外に弱きことを示し、弱き者は外に必ず強きを示す、是れ兵の通法なり、と。
山鹿素行曰く、
軽車は作戦篇に謂ふ所の
先づ戦車を出して傍らにおらば、其の場に備を立つるなり。
陣は備をたて兵士を陣するを云へり、側に居るとは、戦車傍らに出して、陣の場をかため守らしむるなり。
凡そ備を立てんとするときは、其の場を奪われざるが如く守らしむ、而して備えを立つ。
備えに立つるの時は、兵士動きて定まらざるものなるが故に、其の変を敵伺ふべければ、軽車を出して傍らに置きて、是を守らしむるなり、と。
山鹿素行曰く、
凡そ和を乞ふは、久陣して彼が気力つかれ弱るか、
其の子細無くして、しばしば和を求むるは、謀なりと知るべきなり、と。
通鑑云ふ、
故無くして来たり求むる者は、必ず奸謀有り、と。
山鹿素行曰く、
期と云ふは、彼が味方遠く来たりて新手加わるか、我が方に裏切りの者出来て、是を待つか、いかさま期することあって此の如くと知るべきなり。
期は約束をきわめ待つの心なり。
其の約束の期にいたる故に俄に奔走して兵を陣するなり、と。
賈林云ふ、
尋常の期は奔走するに合はず。
必ず遠兵の相ひ応じ、
山鹿素行曰く、
彼が陣屋に鳥集まるは、兵士ひそかに去りて、其の内虚なり。
虚とは、退去して人居らざるなり。
或ひは彼れ陣を大に張り大幕を引き小屋をかけて、人無きの地も人あるがごとくいたすことあり。
是れ又た鳥の往来を以て其の虚をはかるべし、と。
大全に云ふ、
鳥は最も霊にして機を知る、人有れば則ち
敵或ひは虚営を設けて以て我を喝す、我れ
山鹿素行曰く、
賞罰は軍の大要なり。
然るに切々財宝を与へ禄を用ひて賞罰するは、人心離散するが故に、是を賞禄して其の心を安んじ、其の心をとらんとするなり、と。
山鹿素行曰く、
暴はあらくはげしくいたすことなり。
云ふ心は、初めは士卒をあらくはげしくして、後に士卒離散せんことを恐れるは、士卒を使ふの道を
一説に、初め己が暴勇を恃み敵を侮りて、後に彼が大軍を聞いて恐れるは兵の法に
魏武李筌皆な之に従ふ、直解講義開宗は前説に従ふ、と。
山鹿素行曰く、
案ずるに敵を
上雨水沫以下は皆な地によって敵を
然れども専ら地利向背を論ずる故に、前段に属して、軍を処するの大綱として、近而静以下三十二相と為すなり。
其の間、獣駭覆なりと云ふまでは、地利によって敵を
その内に近而静の三句は其の形を
塵高以下四句は塵を
辞卑以下此の段迄は、皆な敵の動静を
其の間、辞卑の二句は是れ其の
凡そ是れを孫子三十二相の法と号す。
敵の情を考へ、其の謀ることを知るは、軍用の大要なり、而して先づ謀りて知るは始計の篇及び所々に見へたり。
我が兵を彼が地にいれて
彼れ我と相対して其の形を見、其の辞をきき、其の情を察することは、此の三十二にあり、而して之を知るの法、辞をきいては其の形を見、形を見ては其の情を考ふ、是れあらわれたるを以て隠れたるをはかるの術なり。
所謂、視観察と云ふべきなり。
此の間、塵を以て之を
凡そ此の三十二相は、其の常法にして、是を反して用ゆるときは、六十四相たり。
読者、之に拘泥すべからず、と。
大全に云ふ、
愚按ずるに、軍を処し敵を相するの法、
鳥起り獣
高鋭平広、條達往来する、
子を易へ骨を
語言
賞罰
凡そ此の者は又た皆な敵を
語句解説
- 条達(じょうたつ)
- すじ道が通る。
- 旌旗(せいき)
- 旗印のこと。色鮮やかな旗。
- 缻(かん)
- 炊器、食器の類。
- 窮寇(きゅうこう)
- 窮地に追われた敵兵。追い詰められて窮した敵。
- 諄諄(じゅんじゅん)
- ていねいに繰り返し教えること。わかるようによく言い聞かせる様。
- 翕翕(きゅうきゅう)
- くどくど物を言うこと。しつこい様。
- 委謝(いしゃ)
- 懇ろに謝ること。自らの過ちを謝して罪を許して貰わんとすること。
- 馳車(ちしゃ)
- 早い車。攻撃用のすばやい車。戦車。軽車。
- 糧秣(りょうまつ)
- 兵糧とまぐさ。軍における人馬の食糧。
- 晷刻(きこく)
- 時刻。晷(き)は日影をはかる柱。
- 儲蓄(ちょちく)
- 貯蓄と同じ。
- 劉鄩(りゅうじん)
- 劉鄩。五代最初の王朝である後梁の名将。その用兵の見事さから一歩百変の異名を持つ。晋王・李存勗(りそんきょく)との戦いでは空営で欺き直接晋陽を狙うも長雨で頓挫。後に讒言によって末帝より毒を贈賜され、劉鄩は従容として之を飲んだという。
- 華元(かげん)
- 華元。春秋時代における宋の宰相。文公と共に列強の中にあって宋をよく保った。楚に都を囲まれた際には敵陣に忍び込み「城中では子を易えて食し、骨を折りて炊くような有様だ」と自ら窮状を告げ、見事に盟約を為した故事がある。
- 窃議(せつぎ)
- 私議。公事について勝手に論ずること。
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