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曾先之

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十八史略-東漢[世祖光武皇帝][馬援.1]

建武九年、隗囂かいごう死す。
更始の初年より兵を起し、建武の初めに至り、天水に拠り、自ら西州の上将軍と称す、後に嘗て馬援つかはして成都に往き、公孫述を観せしむ。
援、述と旧あり。
おもへらくまさに手を握って歓ぶこと平生の如くなるべしと。
時に述すでに帝と称すること四年なり。
援すでに至る。
盛んに陛衛へいえいちんし以て援をく。
援その属に謂って曰く、
天下雌雄未だ定まらず。
公孫、を吐いて国士を迎えず、反って辺幅へんぷくを修飾すること、偶人ぐうじんの形の如し。
此れなんぞ久しく天下の士をとどむるに足らんや、と。
因りてして帰る。

現代語訳・抄訳

建武九年、隗囂が死んだ。
隗囂は更始の初年に兵を起してから、建武の初めに至るまで天水に拠して自ら西州の上将軍と称していた。
ある時、隗囂は馬援を使者として成都に送り、公孫述の様子を探らせた。
馬援は公孫述と旧知であったので、自分が行けば公孫述は手を取り合って昔のように喜んでくれるだろうと思った。
この頃、公孫述は帝を名乗って四年、蜀に覇を唱えていた。
馬援が成都に到着した。
すると、公孫述は仰々しく護衛兵を整列させて迎え入れるだけであった。
これを見た馬援は嘆息して云った。
天下はまだ誰の手に落ちるかわからない状態である。
このときに当っては、古への周公旦の如く、口中のものを吐き出してでも、すぐれた人物を迎えるべきである。
しかし、公孫述はそれをしないどころか、かえって外面ばかりを飾り立てるだけで、人形と同じで誠意がない。
こんなことでは、どうして天下の士を手元に止めて置くことができるだろうか、と。
馬援はそこそこに暇乞いをして帰っていったという。

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出典
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語句解説

隗囂(かいごう)
隗囂。前漢末の武将で、光武帝劉秀と覇権を争い隴西を拠点として勢力を得た。晩年、窮地に陥り公孫述に臣従して光武帝と対抗するも病死。死去の一年後に勢力は滅亡した。
馬援(ばえん)
馬援。後漢の名将。辺境討伐に功あり。年老いて後も戦場に在ることを求め戦陣にて病没した。「老いてはますます壮んなるべし」などの言葉を残している。
公孫述(こうそんじゅつ)
公孫述。前漢末に巴蜀の地に覇を唱え、光武帝劉秀と最後まで覇権を争った群雄。虚栄心の強い人物として描かれる。
陛衛(へいえい)
宮殿下の護衛。天子を護衛する兵。近衛兵。
哺(ほ)
口の中に入れた食べ物。
辺幅(へんぷく)
外見。上辺。外面の飾り。
偶人(ぐうじん)
人形。木偶。
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