孫武
孫子-虚実[1]
孫子曰く、
凡そ先づ戦地に
故に善く戦ふ者は、人を致して人に致されず。
現代語訳・抄訳
孫子が言った。
凡そ先んじて戦地に着いて敵を待つ者は万全を以て之に対し、後れて戦地に着いて戦いに赴く者は疲弊した状態で戦わざるを得ず。
故に善く戦う者は、人を自由自在に翻弄して自らを労せざるの所に置く。
- 出典・参考・引用
- 山鹿素行注・解「孫子諺義」90-92/183
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備考・解説
戦地に先んじて居れば体勢万全、後るればその逆なり。
この喩えを以て解すれば、人を致すは敵後れるなり、人に致されざるは我先んずるなり。
戦地の先後は喩えに過ぎず。
戦に当たれば、常に我を佚して敵の労すを致すのみ。
虚実の応変をみるべきなり。
山鹿素行曰く、
心に虚あり、気に虚あり、形に虚あり、力に虚あり、つとめ守ると雖も其の内虚あり、実は虚の裏なり。
兵を用ゆる処、我れ実にして彼が虚をうつときは、石以て卵を投ずるのやすきあり。
彼れ実なるときは我れ是を避けて戦はず、其の虚をうかがい待つにあり。
虚実の二つを知らざるときは、勝負のることあるべからず、此の故に此の篇を挙げて兵の虚実を論出せり、此の篇内悉く虚実の二字を云ひつくせり。
此の篇を兵勢の下に次ぐことは、形勢ありて而る後に虚実を論ずべきなり、形勢あたらざれば、虚実を云ふ所無きなり、と。
山鹿素行曰く、
今案ずるに奇正は虚実を為すの形なり、然らば奇正は體にして虚実は用なり。
奇正を用ふるは勢のためなり、人を致して人に人に致されず、人を形して我れ形無し、皆な是れ虚実を彼と我とに用ゆべきがためなり。
分数形名奇正を論ずるとも、形勢虚実備へざれば、其のしるしなし。
此の故に兵勢虚実等の篇名あり、と。
唐の太宗云ふ、
兵書、孫武に出づる無し。
孫武十三篇、虚実に出づる無し、と。
蘇老泉云はく、
形勢有れば便ち虚実有り、と。
大全に云はく、
虚実は彼我皆な之れ有り、我れ虚なれば則ち守り、我れ実なれば則ち攻む。
敵、虚なれば則ち撃ち、敵、実なれば則ち避く。
将たる者は彼我の虚実の情を知るを要とす、又た須らく敵の実を変じて虚と為し、我の虚を変じて実と為し、以て戦守の方を施すべし、と。
孫子遺説に云はく、
或ひと問ふ、十三篇の法、各々篇名に本づくかと。
曰く、其の義各々題篇を主とす、未だ嘗て
虚実の如き者は、一篇の義、首尾
其の意の主とする所、実に非ざれば即ち虚、虚に非ざれば即ち実、我れ実にして彼れ虚なるに非ざれば、則ち我れ虚にして彼れ実、然らざれば則ち虚実は彼此に在り、而して善なる者は実を変じて虚と為し、虚を変じて実と為すなり。
王鳳洲云はく、
此の文、首尾喚応す。
他篇に較ぶれば更に句句秘密、
袁了凡云はく、
兵の虚を変じて実と為し、実を変じて虚と為す、通篇只だ此の意を得、と。
山鹿素行曰く、
今案ずるに、先づ戦地に処ひて敵を待つ者は佚す、是れ常法なり。
若し変法を以て是れをいわば、彼れ早く便利に拠って我を待たば、我わざと赴かず、時日をうつし、彼れ其の地に久しくして、兵士の気たゆみ、其の地をすて退くことある其の時を窺ふにあり。
然れば是れ主を変じて客と為すの理なり。
ここを以て此の一句上章を結びて下句を起こすとは云へり。
人を致して人に致されずの心を含むときは、先後の差別佚労のかわりなく、唯だ人を致して人に致されずを以て、此の本とすべきなり、と。
李靖云ふ、
千章萬句、人を致して人に致されずに過ぎざるのみ、と。
大全に云はく、
重きこと先字上に在り、形勢の在る所は、人の必ず争ふ所、我れ先ず処らずんば、人必ず先ず処る、先ず処りて我を待たば、則ち佚、人に在り、先ず処りて人を待たば、則ち佚、我に在り、と。