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孔子

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論語-泰伯[1]

子曰く、
泰伯は其れ至徳と謂ふ可きのみ。
三たび天下を以て譲り、民得て称すること無し、と。

現代語訳・抄訳

孔子が言った。
泰伯こそ至徳というべきであろう。
周の長子として生まれるも、天下のためにこれを譲り、民はそれに気付くことも無かった、と。

出典・参考・引用
久保天随著「漢文叢書第1冊」256-257/600,簡野道明著「論語解義」132-133/358
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備考・解説

季歴は泰伯の弟で古公亶父ここうたんぽの末子。
李歴の子である昌(文王)は生まれて聖瑞あり、古公亶父はこれを以て周の繁栄は昌の代に至って成るとし、故に泰伯は李歴に国を譲る。
周は昌の子である武王の代に殷を滅ぼし天下を得て、人々は殷の圧政から解放されるに至った。
この間、三代。
故に三たび天下を以て譲るという。
民が称すること無き所以は、譲ること先にして民はその所以を察すること能はず、文王・武王の功業の大なるは察し易く、これを成さしめる泰伯の謙譲は知り難し。
知らずして然らしめるは徳の至り、老子の所謂「上徳は無為にして為す無き」所以なり。

注に曰く、
泰伯は周大王の長子、至徳は徳の至極、以て復た加ふる無き者を謂ふなり。
三譲は固くゆずるを謂ふなり。
得て称する無しとは、其のゆずること隠微にして迹の見る可き無きなり。
蓋し大王三子、長は泰伯、次は仲雍、次は李歴、大王の時、商は道ようやく衰へ、而して周は日に強大なり。
季歴又た子・昌を生めり、聖徳有り、大王、商をつの志有りて、泰伯従はず、大王遂に位を李歴に伝へ、以て昌に及ぼさんと欲す。
泰伯之を知りて、即ち仲雍とともに逃げて荊蛮けいばんく。
是に於いて大王乃ち季歴を立て、国を伝へて昌に至り、而して天下を三分して其の二を有す、是を文王と為す。
文王崩ず、子の発立つ、遂に商に克ちて天下をたもつ、是を武王と為す。
夫れ泰伯の徳を以て、商周の際に当たる、すでに以て諸侯を朝しめて天下をたもつに足れり。
乃ち棄てて取らず、而して又た其の迹をゆるは、則ち其の徳の至極如何と為さんや。
蓋し其の心、即ちの馬を控ふの心にして、事の処し難きこと、れより甚だしき者有り。
夫子の歎息して之を賛美するはうべなり。
泰伯従はざる事は、春秋伝に見ゆ、と。
大全に朱子の曰く、
夷斉の武王を諌めて信ぜざれば、便すなはむ。
泰伯の大王商をつに従はざるは、却て一家内の事、武王を諌めると同じからず、之を処し難しと謂ふ所以なり、と。
蒙引に云く、
夷斉の執る所の者は、君臣の義なり。
泰伯の執る所の者も、君臣の義なり。
而して事の処し難きこと、れより甚だしき者有るは、夷斉の武王に於いて犯すこと有りて隠すこと無く、其の去就を以て其の迹を顕す可し。
泰伯、父子の間に処さば、則ち当に隠すこと有りて犯すこと無かるべく、其の去留、其の迹をあらはす可からず。
此れ以て民の得て之を称すること莫き所の者なり、と。
金仁山曰く、
泰伯、薬を荊蛮けいばんに採り、而して人心翕然きゅうぜんとして之に帰す、遂に呉の国を成す。
其の周邦の盛なるを襲うて之をおさめしめば、豈に以て天下をたもつに足らざらんや。
故に夫子之を断ちて曰く、天下を以てゆずるなりと。
且つ泰伯のゆずる、人は其の国をゆずるを知るのみにして、豈に其の天下をゆずるを知らんや。
故に曰く、民得て称すること無し、と。
鄭玄曰く、
大王疾む、泰伯因りて呉に適き、薬を採る、大王没して返らず、李歴喪主たり、一譲なり。
李歴之をぐ、来りて喪に奔せず、二譲なり。
喪を免するの後、遂に断髪文身す、三譲なり。
三譲の美、皆な隠微にしてあらはれず、故に人得て称する無し、と。
陳天祥曰く、
泰伯は商道のようやく衰ふるを見、生民の其の生をやすんぜざるをあはれむにあたり、其の弟は賢なり、其の姪は聖なり。
弟承くるときは、姪嗣ぐことを得。
故に国を王季に致して以て文王に及ぼし、殷商を輔翼し、以て斯の民を救ひめぐまんと欲す。
是れ其の譲を為すや、惟だ是れ天下の故を以てなり。
然れども譲は美徳なり、己れ其の美徳を有すれば、父弟をして其の悪名を受けしむ、猶ほ其の至れる者に非ず。
鄭玄曰く、大王疾あり、泰伯呉に適きて薬を採り、大王没すれども返らずと。
理、或ひは然らん。
既に採薬に託して去るときは、大王に於いては、長をてて少を立つるの嫌ひなく、王季に於いては、弟を以て兄に先んずるの疑なく、其の授受の間、偶然止むことを得ざるに出でて然る者の如し。
其の跡は隠微にして、忠孝の至れる、たれか知りて孰か之をうかがふことを得ん。
此れ其の至徳たる所以なり。
故に夫子之を美したるなり、と。
程明道曰く、
泰伯は王季の賢なる、必ず能く王業を成さんことを知れり、故に天下の為にして之をゆずる、と。
張栻ちょうしょく曰く、
泰伯は文王の聖徳あるを知りて、天下をして其の澤を被らしめんと欲す。
故に国を王季に致すなり。
故に天下を以て譲るとふは、天下の為にして譲るを言ふなり、と。

語句解説

泰伯(たいはく)
泰伯。太伯。呉の始祖。周の古公亶父の長子。末弟の季歴の子である昌(後の文王)が聖瑞を以て生まれ、父が「我が周は昌の代に至って大いに栄えるであろう」と言ったことから、父の意を察して次弟の仲雍と共に江南に赴き呉国を建国。
古公亶父(ここうたんぽ)
古公亶父。周の先祖で文王の祖父。善政を布いて周は盛隆。武王が殷の紂王を討った後に太王の尊号をおくる。
文王(ぶんおう)
文王。周の武王の父で西伯とも呼ばれる。仁政によって多くの諸侯が従い、天下の三分の二を治めたという。
武王(ぶおう)
武王。周王朝の始祖。太公望を擁して殷討伐を成し遂げた。
伯夷(はくい)
伯夷。周初の人で孤竹君の長子。父の意を察して弟の叔斉と王位を譲り合う。後に文王を慕って周に行き、周の武王の殷討伐を諫め、聞き入れられずしてその治世を善しとせずに餓死。叔斉と共に清廉な人物の代表とされる。なお、舜の時代に礼を司った伯夷とは別人。
叔斉(しゅくせい)
叔斉。周初の人で伯夷の弟。父の意もあって王位を譲られたが弟であることから受けず、長兄の伯夷と共に周に行き、武王の殷討伐を諫める。周の治世となるやその粟を食するを恥じて餓死。伯夷と共に清廉な人物の代表とされる。
翕然(きゅうぜん)
鳥が集まり飛ぶこと。多く集まること。また、集まってぴったりと一致する様。
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