朱熹
近思録-存養[9]
事無き時は、
曰く、
古の人の、耳の楽に於ける、目の禮に於ける、左右起居、
独り理義の心を養ふ有るのみ。
但だ此れ涵養の意を存せよ、久しうせば則ち自ずから熟せん。
敬以て内を
現代語訳・抄訳
常に事に遇うときは孟子の所謂「操存」の意を知ることができます。
しかし、事無きときにはどのようにして存養し以て達することができましょうか、と。
程子が答えて言った。
古の人は、古楽や礼法に則るときの起居動作から、それに用いる器具に於いてまで、教訓と戒めを以て、常に己を養うの道とした。
しかし、今は皆なこれを廃して省みることがない。
ただ理義の心を養なうを以て常とせよ。
涵養の意を存して倦まざれば、遂には達することができよう。
易経に、敬以て内を直くす、と記されているのは涵養の意なのである、と。
- 出典・参考・引用
- 久保天随著「漢文叢書第10冊」256-257/556,塚本哲三編「近思録・伝習録」91/478
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備考・解説
操存は孟子の告子上篇に孔子が古語を引いて説く言葉。
その心は、常に心を保つべしというべきか。
私欲に惑いて保たざればこれを失う、時と場所は択ばず、常を以て事と為す。
敬以て内を直くすに関して、王陽明は「敬は事無きときの義である」と述べる。
つまり、事無きときは敬を以て己の守るべきを守ってその性を存養することをいう。
義理の心を養ふは、
但だ此れ無事の時に如何か存養し得て熟せんに答ふ。
故に曰く、
但だ涵養の意を存すること、久しければ則ち自ずから熟し、敬すれば則ち心中に存して、越逸する所無し、即ち涵養の意なり、と。