朱熹
近思録-存養[6]
人の其の止まるに安んずること能はざる所以の者は、欲に動けばなり。
欲、前に
故に
見る所の者、前に在りて、背は乃ち之に背く、是れ見ざる所なり。
見ざる所に止まれば、則ち欲の以て其の心を乱す無く、而して止まること乃ち安し。
其の身を獲ずとは、其の身を見ざるなり、我を忘るるを謂ふなり。
我れ無きは則ち止まる、我れ無きこと能はざれば、止まるべきの道無し。
其の庭に行きて其の人を見ずとは、
外物接せず、
現代語訳・抄訳
人がその至善に止する能はざる所以の者は、欲に動くからである。
欲を前に牽いて惑い、それでいて至善に止せんと欲しても得ることはできない。
故に易経の艮の卦にはこのように記されている。
其の背に
欲の前に在りて、背は即ちこれに背きて少しも見ず。
見ざるところに止まれば、心は利欲に惑うこと無く、故に至善に止するを得。
また、其の身を獲ず、と記されているのは、その身を見ずして我執を去ることをいう。
我無ければ則ち止まり、我に固執して惑えば止まるべきの道無し。
また、其の庭に行きて其の人を見ず、と記されているのは、庭先は至って近きところなりと雖も、背に止まれば至近なりとも見えず、故に外物に交わらざるをいう。
外物に交わらざれば、内に利欲の生ずること無し。
このようにして止まれば、止まるべきに止まるを得。
故に艮の卦には止まるに於いて、咎無し、と為すのである。
- 出典・参考・引用
- 久保天随著「漢文叢書第10冊」254-256/556,塚本哲三編「近思録・伝習録」90-91/478
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備考・解説
至善に止するは大学の道。
人の本性、素のままの心、無善無悪の心をいう。
善の至りは人に備わる。
ただ、人の欲に覆われ惑うが故に、明らかに弁え知る能はざるのみ。
欲すべきを見ざれば、則ち心乱れず、然れども視聴を
蓋し慾に牽かれずして、私邪の見の無きのみ。
物に交らざるは、物を絶つに非ざるなり。
亦た中、主とする所有り、外物の交に誘はれざるを謂ふなり。
内慾
人と己と
朱子曰く、
即ち禮に非ざれば視ること聴くこと言ふこと動くこと勿れの意。
外、既に禮に非ざれば視ること聴くこと言ふこと動くこと無くんば、則ち内、自ずから私己の慾の有るを見ず。