1. 朱熹 >
  2. 近思録 >
  3. 存養 >
  4. 1
  5. 2
  6. 3
  7. 4
  8. 5
  9. 6
  10. 7
  11. 8
  12. 9
  13. 10
  14. 11
  15. 12
  16. 13
  17. 14
  18. 15
  19. 16

朱熹

このエントリーをはてなブックマークに追加

近思録-存養[6]

人の其の止まるに安んずること能はざる所以の者は、欲に動けばなり。
欲、前にいて、其の止まらんことを求むるは、得べからざるなり。
故にこんの道は、当に其の背にとどまるべし。
見る所の者、前に在りて、背は乃ち之に背く、是れ見ざる所なり。
見ざる所に止まれば、則ち欲の以て其の心を乱す無く、而して止まること乃ち安し。
其の身を獲ずとは、其の身を見ざるなり、我を忘るるを謂ふなり。
我れ無きは則ち止まる、我れ無きこと能はざれば、止まるべきの道無し。
其の庭に行きて其の人を見ずとは、庭除ていじょの間は至近しきんなり、背に在れば、則ち至近なりと雖も、見えず、物にまじはらざるを謂ふなり。
外物接せず、内欲ないよくきざさず、かくの如くして止まるは、乃ち止まるの道を得、止まるに於いて咎無しと為すなり。

現代語訳・抄訳

人がその至善に止する能はざる所以の者は、欲に動くからである。
欲を前に牽いて惑い、それでいて至善に止せんと欲しても得ることはできない。
故に易経の艮の卦にはこのように記されている。
其の背にとどまるべし、と。
欲の前に在りて、背は即ちこれに背きて少しも見ず。
見ざるところに止まれば、心は利欲に惑うこと無く、故に至善に止するを得。
また、其の身を獲ず、と記されているのは、その身を見ずして我執を去ることをいう。
我無ければ則ち止まり、我に固執して惑えば止まるべきの道無し。
また、其の庭に行きて其の人を見ず、と記されているのは、庭先は至って近きところなりと雖も、背に止まれば至近なりとも見えず、故に外物に交わらざるをいう。
外物に交わらざれば、内に利欲の生ずること無し。
このようにして止まれば、止まるべきに止まるを得。
故に艮の卦には止まるに於いて、咎無し、と為すのである。

出典・参考・引用
久保天随著「漢文叢書第10冊」254-256/556,塚本哲三編「近思録・伝習録」90-91/478
関連タグ
近思録
朱熹
古典
<<  前のページ  |   ランダム   |  次のページ  >>

備考・解説

至善に止するは大学の道。
人の本性、素のままの心、無善無悪の心をいう。
善の至りは人に備わる。
ただ、人の欲に覆われ惑うが故に、明らかに弁え知る能はざるのみ。

こん傳。
欲すべきを見ざれば、則ち心乱れず、然れども視聴をくるに非ざるなり。
蓋し慾に牽かれずして、私邪の見の無きのみ。
物に交らざるは、物を絶つに非ざるなり。
亦た中、主とする所有り、外物の交に誘はれざるを謂ふなり。
内慾きざさざるは、其の身を獲ざるなり、外物まじはらざるは、其の人を見ざるなり。
人と己とふたつながら忘れ、内外各々定まる、是の如くして動静の間、各々其の止まる所を得、何の咎か之有らん。
朱子曰く、
即ち禮に非ざれば視ること聴くこと言ふこと動くこと勿れの意。
外、既に禮に非ざれば視ること聴くこと言ふこと動くこと無くんば、則ち内、自ずから私己の慾の有るを見ず。
奸声かんせい乱色、聡明に留まらず、淫楽慝禮とくれい、心術に接へず、惰慢だまん邪僻の気、身體に設けざる、是れなり、と。

近思録に関する出典・名言・逸話・言説

近代・現代

近思録に関する近代・現代の参考

語句解説

庭除(ていじょ)
庭先。庭の階段。
<<  前のページ  |   ランダム   |  次のページ  >>


Page Top