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呂氏春秋-孝行覧第二[本味][3]

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原文

伯牙鼓琴。鍾子期聽之。方鼓琴而志在太山。鍾子期曰。善哉乎鼓琴。巍巍乎若太山。少選之間。而志在流水。鍾子期又曰。善哉乎鼓琴。湯湯乎若流水。鍾子期死。伯牙破琴絶弦。終身不復鼓琴。以為世無足復為鼓琴者。非獨琴若此也。賢者亦然。雖有賢者。而無禮以接之。賢奚由盡忠。猶御之不善。驥不自千里也。

書き下し文

伯牙はくがきんし、鍾子期しょうしき之を聴く。
琴を鼓するにあたりて、志太山たいざんに在らば、鍾子期しょうしき曰く、
善いかな、琴を鼓する、巍巍乎ぎぎことして太山たいざんの若し、と。
少選しょうせんの間にして、志流水りゅうすいに在らば、鍾子期しょうしき又た曰く、
善いかな、琴を鼓する、湯湯乎しょうしょうことして流水の若し、と。
鍾子期しょうしき死す、伯牙はくが琴を破りげんを絶ち、終身た琴を鼓さず、以為おもへらく世に復た琴を鼓すに足る者無しと。
独り琴のみ此の若きに非ざるなり、賢者も亦た然り。
賢者有りと雖も、しかれい以て之に接する無くば、賢、なにに由りて忠を尽くさん。
猶ほぎょの善ならざれば、も自ずから千里ならざるがごときなり。

現代語訳・抄訳

伯牙が琴を弾き、鍾子期しょうしきがこれを聴く。
伯牙が太山たいざんを想いて琴を弾けば、鍾子期しょうしき曰く、
善いかな、琴を鼓する、まるで太山の如くに壮大だ、と。
しばらくして流水を想いて琴を弾けば、鍾子期しょうしき曰く、
善いかな、琴を鼓する、躍動してまるで流水のようだ、と。
鍾子期しょうしきが死んだ。
伯牙は、琴を破り絃を絶ち、もう自分の音を聞かせるに足る者は居なくなったと悲しみ、終生琴を弾く琴はなかったという。
これはただ琴のみの話ではない。
賢者においても同様のことである。
たとえ賢者が居ったとしても、礼を以て接することが無ければ、どうして賢者が忠義を尽くすであろうか。
例えるならば、御者が善ならざれば、千里を疾駆する名馬と雖も自ずから千里を往かざるが如きものである。

出典・参考・引用
塚本哲三編「呂氏春秋」172/404,国民文庫刊行会「国訳漢文大成」経子史部・第20巻126/411
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古典
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語句解説

伯牙(はくが)
伯牙。春秋時代の琴の名手。友人の鐘子期が死ぬと、世の中に琴を鼓するに足る者はいなくなったとして、終生琴を弾かなかったという。
巍巍(ぎぎ)
山の高大偉容なる様。
少選(しょうせん)
しばらく。
湯湯(しょうしょう)
水勢の盛んな様。
驥(き)
一日に千里を走るという俊足の馬。人に用いる場合は俊傑の人をいう。冀には高大の意がある。
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