山本常朝
葉隠[2]
武士たるものは、武道を心掛くるべきこと、珍からしからずといへども、皆な人油断と見えたり。
其の仔細は、武道の大意は、何と御心得候か、と問ひかけられたるとき、言下に答へ得る人稀なり。
そは平素、胸におちつきなき故なり。
さては、武道不心がけのこと、知られ申し候。
油断千万のことなり。
武士道と云ふことは、即ち死ぬことと見付けたり。
凡そ二つ一つの場合に、早く死ぬかたに片付くばかりなり。
別に仔細なし。
胸すわりて進むなり。
若し図にあたらぬとき、犬死などと云ふは、上方風の打ち上がりたる武道なるべし。
二つ一つの場合に、図にあたることのわかることは、到底出来ざることなり。
我れ人共に、等しく生きる方が、万々望むかたなれば、其の好むかたに理がつくべし。
若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなりとて、世の物笑ひの種となるなり。
此のさかひ、まことに危し。
図にはづれて死にたらば、犬死気違ひとよばるれども、腰抜けにくらぶれば、恥辱にはならず。
是れが武道に於いてまづ丈夫なり。
毎朝、毎夕、改めては死ぬ死ぬと、常往死身に成っているときは、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。
- 出典・参考・引用
- 山本常朝述・田代陳基記・中村郁一編「葉隠」13-14/107
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