王陽明
伝習録-伝習録中[142.2]
学校の中は、
夫れ徳を挙げて任ずるに
之を用ふる者は惟だ心を同じうして徳を一にし、以て共に天下の民を安んじ、才の
用を
是の時に当たり、天下の人、
其の才質の
其の才能の異、
一家の務めの若く、或ひは其の衣食を営み、或ひは其の有無に通じ、或ひは其の器用を備へ、
故に稷は其の
故に其の精神は流貫し、志気は通達し、而して人己の分、物我の間に有ること無し。
之を一人の身に
目は其の
足は其の執るに無きを恥じず、而して手の探る所、足は必ず
蓋し其の元気
此れ聖人の学、至易至簡にして、知り易く従ひ易く、学びて
現代語訳・抄訳
学校においては、このような自然のままに溢れる徳を体現することを旨した。
人にはそれぞれ才能というものがあり、ある者は礼楽に長じ、ある者は政教に長じ、またある者は農耕に長じるであろう。
そしてこの才能というものはその人間が有せし徳によって初めて活かされるものであり、故に古代においては学校にあたりて徳と共にこれを磨いて精一たらしめたのである。
だから徳に由りてその人を任用すれば、終身その職に当たらせて無闇に代えることはなかった。
任用する者はただ心を同じうして徳を一にし、天下万民を安んずるを旨とし、人それぞれの才能を以て職に当たらせるも、その職の貴賤や繁閑によって人を判ずることはなかったし、用いられる側もまた、ただ心を同じうして徳を一にし、天下万民を安んずるを考え、その天職を得たらば一生を多忙の中に居るとも苦労とは為さず、卑位にあり煩瑣な仕事にあろうともそこに満足して賤しむことはなかったのである。
このようであったから、その時代の人々は一様に相和して自ずから楽しみ、誰しもが家族のように親しみ合うを得た。
素質が天下の事に当たるに適さぬ者であれば、各々の才に従って農工商人の分限に安んじ、その職務に励んで互いに助け合い、官爵を望んだり富貴なるを欲する心などは持たなかったし、舜の臣下であった
だから、后稷はその職分たる農事を安んずるを勤めて己が人々の教導に関して無知なるを恥じず、契が人々を善く教導している様を視れば、まるで自らが善く教導しているかのように満足したし、夔はその職分たる音楽を司りて己が礼に通じておらぬことを恥じず、伯夷が礼に通ずる様を視れば、まるで己が礼に通ずるかの如くに喜んだのである。
それというのも心を修めて純一無雑、外物に塞がれることなく清明なりて、心の本来の姿たる万物一体の仁そのままにあるが故に、その精神は全てに及びて共鳴し、その志気は普く広がりて浸透し、自他の念などは微塵も存せず、全てと共にありて一体となったからである。
これを人の身に喩えてみれば目は視、耳は聴、手は持、足は行であって、さればこそ身体はその調和を得て一体として動くのである。
目は声の聞けぬことを恥じることはなく、耳が聴くところに目もまた視力を注ぐものであるし、足は物を持てぬことを恥じることはなく、手が探らんとすれば足もまたそこに進むものなのである。
それというのも元気が一身に普く行き渡り、血液が脈々と体内にほとばしり、身体に痒みがあらば自然と掻き、口に呼吸せば胆腹もまたこれに相応ずるというが如くに、感触あらば自然と心が動いて作用する、孟子にいう「言わずして
されば聖人の学というものが、甚だ簡易至極にて、誰でも知り誰でも従うことができ、学べば修め易く自らのままにその才能が花開くものであるのが何故かといえば、正にその根本とするところがただ心の體の同じく然りとするところ、所謂「万物一体の仁」へと復るに在りて、知識技能などは問題にしないからに他ならないであろう。
- 出典・参考・引用
- 東正堂述「伝習録講義」(二)53-54/187
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語句解説
- 播植(はしょく)
- 種をまき、苗を植えること。
- 労逸(ろういつ)
- 苦労と安楽。精を出すこととのんびりすること。
- 繁劇(はんげき)
- 仕事がこまごましていて非常に忙しいこと。
- 卑瑣(ひさ)
- 卑位と煩瑣。
- 熙熙皞皞(ききこうこう)
- 熙熙は「和らぎ楽しむ」の意。皞皞は「広やかで明るいさま」の意。
- 商賈(しょうこ)
- 商人のこと。
- 皋陶(こうよう)
- 皋陶。舜、禹に仕えた賢臣。司法をつかさどり、その公正なる様に民は挙って服したという。
- 夔(き)
- 夔。舜の臣下で音楽を司る。一本足の神獣としての名でもあるようである。
- 后稷(こうしょく)
- 后稷。舜の臣下で農事を司る。周の始祖である古公亶父の祖先であるともされる。
- 契(せつ)
- 契。舜の臣下で司徒となり教育を司る。殷王朝の始祖とされる。
- 集謀并力(しゅうぼうへいりょく)
- 謀を集め力を併せる。
- 仰事俯育(ぎょうじふいく)
- 孟子の梁恵王上篇「仰いでは以て父母に事ふるに足り、俯しては以て妻子を畜ふに足る」。
- 伯夷(はくい)
- 伯夷。舜によって秩宗を命じられ三礼を司った。書経舜典。周初の伯夷・叔斉の伯夷とは別人。
- 充周(じゅうしゅう)
- 充ち周る。周には「あまねし」という意がある。充足し行き届くこと。
- 條暢(じょうよう)
- 条暢。のびやかなこと。共に「伸びる」の意がある。
- 痒痾(ようあ)
- かゆい病。
- 言はずして喩るの妙(いはずしてさとるのみょう)
- 孟子「尽心章句上」。真の君子なれば自然とその修めし徳が四體に溢れでる様を述べた言葉の中に登場する。
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