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曾先之

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十八史略-東漢[孝安皇帝][楊震]

大尉楊震自殺す。
震は関西の人、時人之れを称して曰く、
関西の孔子楊伯起、と。
生徒に教授す、堂下に三せんを得たり。
都講、以為おもへらく、
三公の象有り、と。
取りて以て進めて曰く、
先生ここよりのぼらん、と。
後に嘗て郡守と為る。
属邑ぞくゆうの令、金を懐にして之をおくる者有り。
曰く、
暮夜ぼや知る者無し、と。
震曰く、
天知る、地知る、子知る、我知る。
何ぞ知る者無しと謂ふや、と。
じて退く。
三公と為るに及び、時の宦者及び上の乳母王聖、事を用ふるに、皆な請託せいたく有り、震従はず。
又たしばしば近習きんじゅうを以て言を為し、共に之を構し、策して印綬を収む。
遂に死す。
葬むるの日、名士皆な来りて会す。
大鳥有り、高きこと丈余じょうよ、墓前に至りて俯仰ふぎょう流涕りゅうていして去る。

現代語訳・抄訳

大尉の楊震が自害した。
楊震は関西の人で、同時代の人々は楊震を称して「関西の孔子・楊伯起」と讃えていた。
ある時、楊震が学問を教授していると堂下にコウノトリが三匹の海蛇を咥えて集まってきた。
これを見た講師は「三公の象に違いない」と考え、取って楊震に進めて云った。
先生はこの講堂より三公の高位へと至られるでありましょう、と。
楊震は後に郡守となった。
群守となった楊震のもとに、県令が金を懐に入れて訪れて云った。
深夜で誰も知る者はいません。どうぞお受取りください、と。
これに楊震が答えて云った。
天が知り、地が知り、あなたが知り、私が知る。
どうして誰も知る者がいないと言えるでしょうか、と。
県令は大いに恥じて引き下がった。
やがて楊震が三公になると、宦官や帝の乳母である王聖は、事毎に私事を頼み込んできたが、楊震がこれに従うことはなかった。
そこで彼等は近習を利用して帝に讒言をし、また、共謀して事を捏造した。
これを信じた帝は策書を与えて楊震の大尉の官を免じた。
遂に楊震は自害した。
楊震の葬式には世の名士が尽く参列し、高さ一丈を超える大鳥が墓前に至り、哀悼した後に涙を流しながら飛び去ったという。

出典・参考・引用
早稲田大学編輯部編「漢籍国字解全書」(第36-37巻)202/306
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出典
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語句解説

関西(かんさい)
函谷関より西の地方のこと。
鱣(せん)
「こい」もしくは「かじき」に似た大魚。また、うみへびの意にも用いられる。
三公(さんこう)
臣下の最高の三つの官職で周では「太師」「太傅」「太保」、前漢で「丞相(大司徒)」「太尉(大司馬)」「御史大夫(大司空)」、後漢で「太尉」「司徒」「司空」をいう。
請託(せいたく)
内々で私事を頼むこと。私的な関係を頼りに特別なはからいを求めること。
近習(きんじゅう)
近侍の臣。つねに主君の側近くに仕える臣下。
丈余(じょうよ)
一丈余り。約三メートル。
俯仰(ふぎょう)
みまわす。あおぐこととうつむくこと。
コウノトリ(楊震)(こうのとり)
十八史略にはこの記述はないが後漢書に載っている。わかりやすくするために後漢書と整合させた。
海蛇(楊震)(うみへび)
後漢書の楊震伝には「蛇と海蛇は卿大夫の服の象である」と記されている。
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