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范曄

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後漢書-列傳[朱馮虞鄭周列傳][1-4]

朱浮しゅふ、字は叔元、沛国の蕭人しょうじんなり。
初め光武に従ひて大司馬の主簿と為り、偏将軍に遷し、従ひて邯鄲を破る。
光武、呉漢つかはして更始が幽州の牧、苗曾びょうそを誅せしめ、乃ち浮を拝して大将軍幽州の牧と為し、薊城けいじょうを守らしめ、遂に討ちて北辺を定む。
建武二年、武陽侯に封じ、三縣さんけんむ。
浮、年少にして才能有り、すこぶ風迹ふうせきたかくし、士心を収めんと欲し、州中の名宿、涿郡たくぐん王岑おうしんの属を辟召へきしょうし、以て従事と為さんと欲す。
王莽が時の故吏二千石に及ぶまで、皆な引きて幕府に置き、乃ち多く諸郡の倉穀を発し,其の妻子に稟贍りんせんす。
漁陽太守が彭寵ほうちょう以為おもへらく、天下未だ定まらず、師旅しりょを方に起こし、多く官属を置き、以て軍実ぐんじつを損ふは宜しからずと。
其の令に従はず。
浮が性は矜急自多きょうきゅうじたすこぶる不平有り、因りて峻文しゅんぶんを以て之をそしる。
寵、亦た很強こんきょう、兼て其の功をたのみ、嫌怨転積けんえんてんせきす。
浮、密かに奏す、寵は吏を遣はして妻を迎へて其の母を迎えず、又た貨賄かわいを受け、友人を殺害し、多く兵穀をあつめて、意計量り難しと。
寵、既に積怨、聞きて、遂に大怒し、而して兵を挙げて浮を攻む。
浮、書を以て之を責めてただして曰く、
けだし聞くに知者は時に順ひて謀り、愚者は理に逆ひて動く。
常にひそかに悲しむ、京城の太叔は足るを知らずして賢輔無し、卒に自ら鄭を棄つなり。
伯通、名字を以て郡を典る、佐命の功有り、人に臨みて職を親しみ、倉庫を愛惜あいせきし、而して浮は征伐の任をりて、権時けんじの急を救はんと欲す、二者皆な国の為のみ。
即ち浮を相ひそしらんと疑ふ、何ぞけつに詣て自ら陳せずして、族滅の計を為すや。
朝廷の伯通に於ける、恩は亦た厚し。
委するに大郡を以てし、任するに威武を以てす。
事は柱石之寄せきちゅうのきに有り、情は子孫之親にひとし。
匹夫媵母ひっぷようぼも尚ほ能く命を一餐いっさんに致す、豈に身に三綬さんじゅを帯び、職は大邦を典り、而して恩義を顧みず、心を外畔がいはんに生ずる者の有らんや。
伯通、吏人と語るに、何を以てか顔と為さん。
行歩拝起ぎょうほはいき、何を以てか容と為さん。
座臥に之を念ふとも、何を以てか心と為さん。
鏡を引きて影をうかがふとも、何を眉目びもくに施さん。
措を挙げて功を建つるとも、何を以てか人と為さん。
惜しまんや休令きゅうれい嘉名かめいを棄て、梟鴟きょうしの逆謀を造し、伝世の慶祚けいそを捐てて、破敗ははいの重災を招き、高くの道を論じ、の性を忍ばず、生じては世の笑と為り、死しては愚鬼と為る、亦た哀れざらんや。

現代語訳・抄訳

朱浮は字を叔元といい、沛郡の蕭の人である。
初め光武帝に従って大司馬の主簿、偏将軍を歴任し、邯鄲の王郎を破った。
光武帝は呉漢を遣わして更始帝の配下の幽州の牧である苗曾を誅殺し、朱浮を大将軍に任じて幽州の牧とし、薊城を守らせ、北方を平定した。
建武二年には武陽侯に封ぜられ、三県を食邑として得た。
朱浮は年少にして才能に溢れ、人々を教化して士人の心をつかもうと考えた。
やがて幽州の牧となった朱浮は、幽州の高名な宿儒である王岑ら多数の名士を招聘して登用し、更には王莽の時代の官吏も皆な幕府に引き入れ、幽州の諸郡の倉穀にある食糧をその官吏の妻子のために用立てた。
このような朱浮に対して漁陽の太守であった彭寵は主張した。
天下は定まったとは言えないのに軍隊を方々に発し、多くの官吏を登用して軍の糧食を損なうのは善い方策ではない、と。
そして朱浮の命令に従わなかった。
朱浮は気短で自ら賢ぶる性情であったので、このような彭寵の態度に不平を抱き、厳しく文書を以て非難した。
彭寵もまた自尊心が高く、以前から自分の功の大なるを自負していたので、二人は次第に嫌悪し合うようになっていった。
ある時、朱浮は密かに上奏し彭寵を讒言した。
妻を迎えたのに母を迎えぬ不孝者であり、賄賂を受取り、その友人を殺害し、また兵糧を集めて何を企んでいるのかわからない、と。
これを知った彭寵は、積年の怨みもあって大怒し、遂に朱浮に対して挙兵した。
そこで朱浮は彭寵に対してその暴挙を質す書簡を送った。
曰く、
考えてみるに、知者というものは時に順いて謀るが、愚者というものは理に逆らって動くものである。
春秋時代、京城の太叔は足るを知らずして側近に輔弼の賢臣は居らず、故に自ら暴挙に出てその領地を失い鄭から出奔するに至ったという故事があるが、常々密かに悲しく思っている。
伯通よ、あなたは名字を以て郡を典り、光武帝の王業を助けて功がある。
そして、民を治めるに職に親しみ、食糧を乱用せずに大事にせんと欲している。
それに対して、私は征伐の任を束ね、一時の急を救わんと欲しているのである。
あなたも私も、結局は国の為を思ってのことに過ぎないではないか。
あなたは私が讒言を行っていると疑っているようであるが、されば、どうして中央に出向いて自ら陳情せずして、一族郎党を迷わすような暴挙にでるのであろうか。
朝廷の伯通に対する恩情は甚だ厚いものである。
委任するに大郡を以てし、任ずるに大将軍の号まで与えているではないか。
このような事実は国家の柱石として認じているからに他ならず、その恩情は子孫に対する親の心に等しいものであろう。
匹夫であった霊輙は一食の恩にその命を顧みず趙盾を助けたし、媵母の例もまた同様である。
されば、身に三綬を帯び、職は大邦を典っているにも関わらず、恩義を顧みることなく心を外に向ける者などが居るであろうか。
伯通よ、吏人と語るに何を以て顔と為すか。
その挙止動作、何を以て容と為すか。
座臥にこれを念ったとて、何を以て心と為すか。
鏡を引き影を窺ったとして、何を眉目に施せよう。
如何に立ち振る舞って功を建てようとも、何を以て人と為そうか。
なんと愚かなことであろう。
立派な評判を棄てて、鴟梟の如き逆謀を策し、後世にまで渡る慶福を損てて、破敗の重災を招き、高く堯舜の道を論ずるも、桀紂の如き性を忍ぶことなく、生じては世の笑いものとなり、死すれば愚かな鬼と為る。
哀れと言うことすらできぬではないか。

出典・参考・引用
長澤規矩他「和刻本正史後漢書」(二)p739
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朱浮
後漢書
出典
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語句解説

劉秀(りゅうしゅう)
劉秀。後漢の始祖。光武帝。文武両道、民衆に親しまれ、その治世は古の三代にも匹敵したとされる。名君の代表として有名。
呉漢(ごかん)
呉漢。後漢の武将。岑彭と共に公孫述を討ち蜀を平定。豪胆にして戦陣において顔色一つ変えなかったとされる。
武陽侯(ぶようこう)
長澤規矩の「和刻本正史後漢書」と范曄著の「後漢書列伝第21-25巻」を参考。ネット上の文献には「舞陽侯」とある。
風迹(ふうせき)
風化の跡。人々を教化したなごり。
辟召(へきしょう)
官に任ずるために召しだすこと。
王莽(おうもう)
王莽。前漢の末に事実上の簒奪によって帝位を奪い、新を建国。儒教の理想を強引に政治に当てはめて混乱、民衆の反乱が続発し建国わずか15年で滅亡。
師旅(しりょ)
軍隊。五百人を旅、五旅(二千五百人)を師という。また、戦争のことを指す場合もある。
軍実(ぐんじつ)
軍事用品、戦利品、捕虜など。
矜急自多(きょうきゅうじた)
気みじかで自ら賢ぶること。
峻文(しゅんぶん)
苛烈な文章、書簡。
貨賄(かわい)
貨財。金や布帛。人に取り入るために送る品物。賄賂。
京城の太叔(けいじょうのたいしゅく)
鄭の公子である「段」のこと。母の願いから兄の荘公によって京邑に配されたが、調子に乗って野心を抱いて背信、だが京城の民に背かれ敗走して出奔した。
佐命(さめい)
天命を受けた天子の王業をたすけること。
愛惜(あいせき)
物惜しみする、大切にする。
権時(けんじ)
しばらく、とりあえず。暫時。
闕(けつ)
門観。宮殿の門。
柱石之寄(せきちゅうのき)
重い役目。国家や社会などの柱となるような人物のこと。
匹夫媵母(ひっぷようぼ)
「匹夫」は霊輙の故事。晋の大夫の趙盾に餓えている所を助けられた霊輙は、後に趙盾の窮地を命を顧みずに助けた。「媵母」に関しては不明。
三綬(さんじゅ)
彭寵が「漁陽太守」「建忠侯」「大将軍」であることをいう。
外畔(がいはん)
外境。外地。領土外。
休令(きゅうれい)
立派な。
嘉名(かめい)
評判。嘉声。
梟鴟(きょうし)
鴟梟。ふくろう。残忍で凶悪な人をたとえる。
慶祚(けいそ)
幸い。めでたいこと。
破敗(ははい)
戦いに負けること。傷つけること。
堯(ぎょう)
堯。尭。古代の伝説的な王。徳によって世を治め、人々はその恩恵を知らぬまに享受したという。舜と共に聖王の代表。
舜(しゅん)
舜。虞舜。伝説上の聖王。その孝敬より推挙され、やがて尭に帝位を禅譲されて世を治めた。後に帝位を禹に禅譲。
桀(けつ)
桀。夏の十七代目の王。暴君の代表。殷の湯王によって滅ぼされた。
紂王(ちゅうおう)
紂王。殷の三十代皇帝で暴君の代表。帝辛。材力人に過ぎ勇猛であったが無道にしてその治世は乱れ、周の武王によって滅ぼされた。
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