道元禅師
正法眼蔵-四攝法[2]
愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。
おほよそ暴悪の言語なきなり。
世俗には安否をとふ禮儀あり、佛道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。
慈念せし衆生を、猶ほ
徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。
愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。
しかあればひごろしられず、みえざる愛語も現前するなり。
現在の身命の存ぜらんあひだ、このんで愛語すべし。
世世生生にも
むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。
むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。
しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。
愛語よく
現代語訳・抄訳
愛語というは、衆生をみるに先ず慈愛の心を起こし、顧愛の言語を施すのである。
およそ暴悪の言語などはない。
世俗には安否を問う礼儀があり、仏道には辞去の挨拶があり、孝行の挨拶がある。
慈念せし衆生よ、赤子に対するが如くに慈愛の心をたくわえて言葉を発すれば、それが愛語というものなのである。
徳あるは讃えるのだ、徳なきは憐れむのだ。
愛語を好むことから、次第に愛語はその体となる。
然らば日頃より知られずして、気付かれることもなき愛語もやがて具現化することになる。
現在の身命が在りし間、好んで愛語するのだ。
その生が何度生まれ変わろうとも、一歩も退いてはならない。
怨敵の悪心を打破せしむるも、君子の善心に気付きを与えるも、愛語を根本とするのである。
向いて愛語を聴くは、面を喜ばしめ、心を楽しくする。
向わずして愛語を聴くは、肝に銘じ、魂に銘ず。
知るべし、愛語は愛心より起こると。
そして愛心は、慈悲の心を種子とするのである。
愛語にはあらゆる困難を一変させる力のあることを学ぶべきである。
ただ、人の善きを賞するだけにとどまらないのである。
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