范曄
後漢書-列傳[隗囂公孫述列傳][44-45]
中郎将
十二年、述が弟の恢及び
是れより将師
帝、必ず之を降さんと欲し、乃ち詔を下し述に
往年
今、時を以て自ら
若し迷惑を
将師は
述、終に降る意無し。
九月、呉漢又た大司徒の謝豊、
述、
事、当に
岑曰く、
男児当に死中に生を求むべく、坐して窮さんや。
財物は
述、乃ち
漢、水に堕つ、馬の尾に
現代語訳・抄訳
中郎将の
来歙を恐れた環安は刺客を放って暗殺し、公孫述もまた連戦連勝を続ける
建武十二年、公孫述の弟の公孫恢と娘婿の史興が、大司馬の呉漢と輔威将軍の
これによって公孫述の陣営は
公孫述は逃亡した者の一族を誅殺して抑えようとしたが、それでも離反が途絶えることはなかった。
その様子に光武帝は降伏を勧める詔を発し、公孫述に
これまでも幾度も
来歙や岑彭を刺殺したことで、私のその心が変わるなどと疑ってはいけない。
今すぐに降伏してくるならば、一族郎党の安全を保障しよう。
もし心が惑って決断できねば、まるで肉を虎口にまかせるが如きことになって、全きを得ることは出来ぬであろう。
すでに将師は疲れて倦み、吏士は故郷を思い、楽しまずして長い期間を駐屯して守っている。
故にこの詔書を手記した。
既に命数は帰するところを得てあなたの手元にはないのだ。
私は決して、約束をたがえることはない、と。
だが、公孫述は終に降伏しなかった。
九月になり、呉漢は大司徒の謝豊と
公孫述は
今後、どうすればよいだろうか、と。
延岑が云った。
男子たれば死中に生を求めるべきであって、座して窮するなどは愚の骨頂です。
財物などというものは大したものではありません。
財物に固執することはやめて大いに活用しようではありませんか、と。
そこで公孫述は
延岑は偽って軍旗を高らかに掲げ、軍鼓を打ち鳴らして戦いを挑んだ。
呉漢がこれに応戦すると、延岑はひそかに背後に回した奇襲の兵を以て襲撃し、呉漢の軍を大いに破った。
不意をつかれた呉漢は落水し、馬の尾にしがみついてようやく逃げるを得た。
- 出典・参考・引用
- 長澤規矩他「和刻本正史後漢書」(一)p474
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語句解説
- 中郎将(ちゅうろうしょう)
- 国の官名で五官署、左署、右署を監督し、光禄勲に属す。
- 来歙(らいきゅう)
- 来歙。後漢創業の功臣。隗囂討伐に功あり、公孫述討伐において刺客により暗殺。その死の直前に号泣する蓋延を一喝して後事を託した。
- 公孫述(こうそんじゅつ)
- 公孫述。前漢末に巴蜀の地に覇を唱え、光武帝劉秀と最後まで覇権を争った群雄。虚栄心の強い人物として描かれる。
- 岑彭(しんほう)
- 岑彭。後漢創業の功臣。用兵に巧みで敵から神業と嘆賞される。軍規を正し、略奪を一切行わなかった。
- 子婿(しせい)
- 娘の夫。婿。女婿と同じ。
- 呉漢(ごかん)
- 呉漢。後漢の武将。岑彭と共に公孫述を討ち蜀を平定。豪胆にして戦陣において顔色一つ変えなかったとされる。
- 臧宮(ぞうきゅう)
- 臧宮。後漢の将軍で蜀平定に功あり。寡黙にして剛胆、光武帝から「常勝将軍」と言われた。
- 恐懼(きょうく)
- 恐れ慎むこと。
- 詔書(しょうしょ)
- 詔勅のこと。天子の言葉を記した公文書で一般に公示されるものをいう。
- 迷惑(めいわく)
- 一般には「煩わしく嫌な思いをすること」だが、本来は「心が迷い惑う」という意であり、「途方にくれる」「どうしてよいかわからずに先が見えない」ことをいう。
- 疲倦(ひけん)
- 疲れ倦む。疲れて嫌になること。
- 食言(しょくげん)
- 前言をひるがえすこと。約束をたがえる意。一度口に出した言葉を食べたようになくすことから。
- 大司徒(だいしと)
- 教育のことを司る。また、漢代に丞相と改称し、国政を司った。
- 執金吾(しっきんご)
- 秦、漢代の官名で京師(都)の治安を司った。もとは中尉と呼ぶ。漢の武帝によって改称。
- 延岑(えんしん)
- 延岑。後漢初期の群雄の一人で、後に公孫述の配下となる。用兵に優れ、「男児当に死中に生を求むべし」との言を残した。
- 金帛(きんぱく)
- 黄金と絹織物の意で、共に貴重な物品をいう。
- 敢死(かんし)
- 死を覚悟すること。決死の人。
- 旗幟(きし)
- 旗と旗印、特に軍旗をいう。また、ある物事に対して示すその人の態度や主張のことを指す場合もある。
- 奇兵(きへい)
- 奇襲の兵。敵の不意を討つ軍隊のこと。
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