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范曄

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後漢書-列傳[隗囂公孫述列傳][41-43]

が性は苛細かさい、小事にあきらかなり。
敢へて誅殺し而して大體だいたいあらはさず、郡県官名の改易を好む。
然るにわかくしてと為り、漢家の制度に習ひ、出入りするに法駕ほうがし、旄騎ぼうき鑾旗らんきし、陛戟へいげきを置きつらね、然る後に房闥ぼうたつより輩出す。
又た其の両子を立てて王と為す、犍為けんい広漢の各数県にむ。
群臣多く諫む、以為おもへらく成敗未だ知る可からず、戎士じゅうし暴露ばくろせり、而してにわかに皇子を王とし、大志無きを示す、戦士の心をそこなはんと。
述、聴かず。
唯だ公孫氏のみに事を任すを得、此れに由りて大臣皆な怨む。
八年、帝、諸将をして隗囂かいごうを攻む、述、李育を遣はし万余人をひきひて囂を救ふ。
囂、敗し、ならびに其の軍没す、蜀の地之れを聞きて恐動きょうどうす。
述、懼れ、衆の心を安んぜんと欲す。
成都の郭外かくがいに秦の時の旧き倉有り、述、改め白帝倉と名づく、王莽おうもうより以来、常にむなし。
述、即ち詐して人をして言はしむ、白帝倉が穀を出だすに山陵の如しと、百姓、市里をむなしくし往きて之を観る。
述、乃ち大ひに群臣を会し、問ふて曰く、
白帝倉、つひに穀を出だすか、と。
皆な対へて言ふ、
無し、と。
述曰く、
訛言かげんは信ず可からず、隗王かいおう破れんとふ者も復た此の如し、と。
にわかにして囂が将の王元降る、述、以て将軍と為す。
明年、元をして領軍の環安とともに河池をふせがしむ、又た田戎及び大司徒任満、南郡太守の程汎を遣はし兵をひきひて江関より下らしめ、虜将軍の馮駿ひょうしゅん等を破り、巫及び夷陵、夷道を抜き、因りて荊門けいもんに拠す。
十一年、征南大将軍岑彭しんほう、之を攻む、満等大敗す、述が将王政、満が首を斬りて彭に降る。
田戎走りて江州をまもる。
城邑じょうゆう皆な開門して降り、ほう、遂に長駆ちょうくして武陽に至る。
帝、乃ち述に書をあたへ、禍福を陳言ちんげんし、以て丹青之信たんせいのしんを明らかにす。
述、書を省みて歎息し、以て親しき所の太常たいじょう常少、光禄勲こうろくくん張隆に示す。
隆、少皆な降を勧む。
述曰く、
廃興はいこうは命なり。
豈に天子に降る有らんや、と。
左右に敢へて復た言し。

現代語訳・抄訳

公孫述はこまごまとして小事にばかりこだわる性情であった。
誅殺することがあってもそのあらましを示すことはなく、郡県や官名などを自分の好きなように改めては満足した。
若くしてとなり、漢王朝の制度を目の当たりにしていたので、自らが皇帝を称するようになると、その制度に則った。
出入りには車駕に乗り、鑾旗らんきを立てた車騎に先導させ、戟を持った兵士を左右に並べ、そうした後に宮中から外に出た。
また、自分の二人の子供を王とし、犍為けんい広漢の各々数県を領土として与えた。
群臣の多くは諫めて云った。
まだ天下の形勢はどのようになるか分からず、兵士達は風雨にさらされて生活をしています。
それにも関わらずむやみに皇子を王と為す、これでは自らの大志無きを示しているようなもので、戦士達の心は離れてしまうでありましょう、と。
それでも、公孫述は聴かなかった。
公孫述は親族ばかりを重用したので、大臣達は次第に怨むようになっていった。
建武八年、光武帝が諸将を率いて隗囂かいごうを攻めた。
公孫述は李育に一万余りの軍勢を持たせて救援に向かわせ、隗囂を救った。
建武九年、隗囂は病没し、しばらくして隗囂の勢力は光武帝によって滅ぼされた。
蜀の地はこれを聞いて驚愕した。
公孫述は人々が離反することを懼れ、皆の心を安んじたいと考えた。
成都の郊外には秦の時代からの倉があり、王莽おうもうの時代から常に空の状態であった。
公孫述はこの倉を白帝倉と名づけ、人を使って「白帝倉から山陵のように大量の穀物が出される」という噂を流した。
これを聞いた百姓達はこぞって倉を観に行った。
公孫述は群臣を集めて問うて云った。
白帝倉から穀物は出されたか、と。
群臣達が答えて云った。
そのような事実はありません、と。
公孫述は云った。
風評というものは信じるものではない。
隗囂が破れたという噂もまた同じことであろう、と。
しばらくして、隗囂の将であった王元が降った。
公孫述はこれを将軍に任じた。
年が明けると、王元に命じて環安と共に河池を守らせ、次いで田戎や大司徒の任満、南郡太守の程汎に命じて江関から進軍させた。
田戎等の軍勢は虜将軍の馮駿ひょうしゅん等を破って巫や夷陵、夷道を攻略し、荊門けいもん山に陣取った。
建武十一年、征南大将軍の岑彭しんほうがこれを攻めた。
岑彭しんほうの進撃に任満等は大敗し、公孫述の将である王政が裏切って任満の首を斬り、岑彭しんほうの陣営に降った。
田戎は敗走して江州に落ち延びた。
岑彭しんほうの進撃するところ、城邑じょうゆうは相次いで戦うことなく降伏し、遂に遠く武陽にまで至った。
そこで光武帝は公孫述に書を送り、禍福を書き連ねて降伏を勧め、決して約束をたがえることはないと丹青之信を示した。
公孫述は書を読むと歎息し、親しくしていた太常たいじょうの常少、光禄勲こうろくくんの張隆に相談した。
常少と張隆は共に降伏を勧めた。
すると公孫述は云った。
興亡治乱は天命である。
どうして天子に降るなどということがあろうか、と。
左右の者は皆な閉口し、敢えて諫める者は居らなかった。

出典・参考・引用
長澤規矩他「和刻本正史後漢書」(一)p473-474
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語句解説

公孫述(こうそんじゅつ)
公孫述。前漢末に巴蜀の地に覇を唱え、光武帝劉秀と最後まで覇権を争った群雄。虚栄心の強い人物として描かれる。
苛細(かさい)
こまごまと煩わしいこと。
郎(ろう)
宮門の守衛を管轄する職。皇帝の巡幸の際には車騎に乗る。
法駕(ほうが)
天子の車駕。転じて天子を指す場合もある。
旄騎(ぼうき)
先駆の騎。
鑾旗(らんき)
鑾で飾った旗。鑾は「すず」の意で、天子の車馬に飾りとして付けた。
陛戟(へいげき)
宮殿の階段の下で戟を持った兵士が護衛すること。また、その兵士を指す。
房闥(ぼうたつ)
宮中の室。
広漢(こうかん)
広漢郡。益州にあり前漢に広漢郡が置かれて十三県を管轄。
戎士(じゅうし)
兵卒の意。
暴露(ばくろ)
風雨にさらされること。なお、日本語では「秘密や悪事を暴く」「露見する」の意に用いられる。
隗囂(かいごう)
隗囂。前漢末の武将で、光武帝劉秀と覇権を争い隴西を拠点として勢力を得た。晩年、窮地に陥り公孫述に臣従して光武帝と対抗するも病死。死去の一年後に勢力は滅亡した。
恐動(きょうどう)
恐れて動揺すること。
郭外(かくがい)
城郭の外。
王莽(おうもう)
王莽。前漢の末に事実上の簒奪によって帝位を奪い、新を建国。儒教の理想を強引に政治に当てはめて混乱、民衆の反乱が続発し建国わずか15年で滅亡。
訛言(かげん)
流言。誤った風評。
大司徒(だいしと)
教育のことを司る。また、漢代に丞相と改称し、国政を司った。
岑彭(しんほう)
岑彭。後漢創業の功臣。用兵に巧みで敵から神業と嘆賞される。軍規を正し、略奪を一切行わなかった。
城邑(じょうゆう)
城壁に囲まれた町のこと。都市。
長駆(ちょうく)
遠く馬を走らせること。敵を遠くまで追っていくこと。一気に遠征すること。
陳言(ちんげん)
陳述。また、ありきたりの文句、陳腐の言。
太常(たいじょう)
大常。中国の官名で九卿の筆頭。天子の宗廟の祭祀や礼楽を司る。また、天子の旗の意もある。。
光禄勲(こうろくくん)
中国の官名で九卿の一つ。宮殿の警護を司る役所の長官。
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