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王陽明

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伝習録-伝習録中[142.1]

夫れ抜本塞源の論、天下に明かならざれば、則ち天下の聖人を学ぶ者、将に日にしげく日に難く、斯の人にして禽獣夷狄きんじゅういてきしずみ、而して猶ほ自ら以て聖人の学と為す。
吾れの説の或ひはしばらく一時に於いて明かなりと雖も、終には将に西に凍解とうかいし、而して東に氷堅ひょうけんし、前に霧釋むしゃくし、而して後に雲滃うんおうし、呶呶焉どうどうえんとして危困きこんし以て死す、而してつひに天下の分毫ぶんごうを救ふ無きのみ。
夫れ聖人の心、天地万物を以て一體と為す。
其の天下の人を視るに、外内遠近無く、凡そ血気有るは、皆な其の昆弟こんてい赤子せきしの親、安全にして之を教養し、以て其の万物一体の念を遂げんと欲せざるは莫し。
天下の人心、其の始めは亦た聖人に異なること有るに非ざるなり。
だ其の有我の私にへだてられ、物欲の蔽に隔てられ、大なる者は以て小に、通ずる者は以て塞がれ、人おのおのに心有り、其の父子兄弟を視るに仇讐きゅうしゅうなる者有るに至る。
聖人之を憂ふる有り
是を以て其の天地万物一体の仁をして以て天下を教へ、之をして皆な以て其の私にち、其の蔽を去り、以て其の心の體の同然かへらしむる有り。
其の教への大端だいたんは、則ちぎょうしゅんひ授受せる、所謂、道心はれ微、惟れ精に惟れ一、まことの中を執れにして、其の節目は、則ち舜のせつに命ずる、所謂、父子親ふししん有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序ちょうようじょ有り、朋友信ほうゆうしん有りの五者のみ。
唐虞とうぐ三代の世、教ふる者はだ此れを以て教と為し、而して学びし者は惟だ此れをもって学と為す。
是の時に当たり、人に異見無く、家に異習無し。
此れに安んずる者を之れ聖と謂ひ、此れをつとむる者を之れ賢と謂ひ、而して此れに背く者、其の啓明けいめいなることの如しと雖も、亦た之れを不肖と謂ふ。
下は閭井田野りょせいでんや、農工商賈しょうこの賤に至るまで、皆な是の学に有らざるは莫く、而して惟だ其の徳行を成すを以て務めと為す。
何となれば聞見ぶんけんの雑、記誦きしょうの煩、辞章じしょう靡濫びらん、功利の馳逐ちちく有る無く、而してだ之れ其の親に孝、其の長にてい、其の朋友に信にして、以て其の心の體の同然に復らしむればなり。
是れけだし性分の固有する所、而して外にる有る者に非ずして、則ち人亦たいづれか之を能くせざらんや。

現代語訳・抄訳

そもそも、抜本塞源の論が天下に明かとならざれば、聖人を志す者が居っても、学ぶことが日に日に煩雑となるばかりで、聖人に近づくどころか逆に禽獣夷狄の如くになっていることにも気付かず、自分では聖人の学を為していると思い込んでしまうのである。
私が説くところは、もしかしたら一時においてはこれを明らかにするかもしれない。
されども、西で解ければ東で凍り、前で晴れるも後ろが覆われるというが如くに、いくら説けども終にはその真義は忘れ去られ、この身を尽すも、天下を少しも救うことができずに終わるであろう。
聖人の心とは天地万物を以て一体と為すものである。
故に天下の人を見るに内外遠近の隔てなどはないし、およそ生ある者に対すれば、まるで近親なる者と接するが如くに安んじて教養し、各々が本来有せし万物一体の念へと至らせんと欲するのである。
人の心というものは、その生まれしままにおいては聖人の心と異なる所があるわけではない。
ただ、自他の観念に陥って私に恣行し、物欲に惑って本来有せし心を見失ってしまうが故に、その全てをつつむ大なる心も私に偏した小なるものとなり、万物に通ぜし心も欲によって塞がれてしまい、決して和することなき私心が生じ、故に父子兄弟を視るもまるで仇敵に対するが如きに接する者が現れてしまうのである。
聖人であった舜はこれを憂えた。
だから、舜は自らが有せし天地万物一体の仁を推して天下を教導し、故に人々は有我の私より脱し、物欲の蔽から去るを得て、遂には心の本来の姿たる万物一体の仁へと復るに至ったのである。
この教導における根本が何かといえば、古代の聖王たる堯、舜、禹の禅譲における「道心は惟れ微、惟れ精に惟れ一、允に厥の中を執れ」のみであり、その守るべきものが何かといえば、舜が契に命じて人々に対する教えとした「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」の五倫のみなのである。
堯舜から夏殷周の三代の時代においては、教導する者はただこの五倫を以て教えとし、学ぶ者もただこの五倫を以て学とした。
故にその時代において、人々は其の自然なるがままに随いて私に偏することはなく、家においてはただ己を尽すことのみを以て家訓とした。
そしてこれに安んじて大自然の如くある者を聖と呼び、そこに至らんと欲して自ら勉めし者を賢と呼び、如何に才覚豊かであろうともこれに気付くことなく、自らを蔑ろにせし者を不肖と呼んだのである。
如何なる立場の者であろうとも学とはこれ以外には無く、人々はただ自らを修めることを以て務めとした。
それが何故かといえば、今日の如くに煩雑な知識見聞、華美な文章、功利を追い求めるといったことなどは意に介さず、ただ親に孝、長に弟、朋友に信といった五倫を尽くすを以て事とし、人々をその心の本来の姿たる万物一体の仁へと復らしめたからなのである。
この万物一体の仁たる心は人の本性にして誰しもが備えしものであって、決して外から得るようなものではないのだから、どうしてここに復れぬという者が居るであろうか。

出典・参考・引用
東正堂述「伝習録講義」(二)52-53/187
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語句解説

凍解(とうかい)
氷がとけること。
氷堅(ひょうけん)
氷が凍ること。
霧釋(むしゃく)
霧が晴れること。
雲滃(うんおう)
雲が集まって立ち込めること。
呶呶焉(どうどうえん)
多言すること。やかましい様。「焉」は形容詞につける助詞で状態をあらわす。
危困(きこん)
危険と困窮。
分毫(ぶんごう)
きわめて僅かなこと。
昆弟(こんてい)
兄弟のこと。昆は兄の意。
赤子(せきし)
あかご。赤ん坊。また、君主を親に例えて「人民」「国民」の意に用いる場合もある。
聖人之を憂ふる有り(せいじんこれをうれふるあり)
孟子の滕文公章句上の言葉。生活が豊かになった人々の教化せずして禽獣の如くなることを憂えた舜は契に命じて五倫を以て教えと為したとある。
心の體の同然(こころのたいのどうぜん)
孟子の告子上篇。聖人とは先ず心の同じく然りとする所のものを得るとある。
堯(ぎょう)
堯。尭。古代の伝説的な王。徳によって世を治め、人々はその恩恵を知らぬまに享受したという。舜と共に聖王の代表。
舜(しゅん)
舜。虞舜。伝説上の聖王。その孝敬より推挙され、やがて尭に帝位を禅譲されて世を治めた。後に帝位を禹に禅譲。
禹(う)
禹。夏王朝の始祖で伝説の聖王。父の業を継いで黄河の治水にあたり、十三年間家の前を通っても入らなかった。後、舜に禅譲されて王となる。
朱(丹朱)(しゅ)
堯の子である丹朱のこと。堯は子の丹朱を愚として舜に帝位を譲った。ただ、書には丹朱を啓明と記しており、暗愚であるというよりは才覚豊かなれども徳を備えないということであろう。
閭井田野(りょせいでんや)
閭井は「村里でにぎやかな場所、村の盛り場」。田野は盛り場ではないから、二つを合わせて村里全体を指すと思われる。
商賈(しょうこ)
商人のこと。
何となれば(なんとなれば)
原文は「何者」。者にはある状態を特定して「~のときは、~ならば」という用法がある。時間名詞や疑問詞を特に強調するのに付けるらしい。
靡濫(びらん)
くずれ乱れること。
馳逐(ちちく)
馬に乗ってはやい速度で追いかけること。
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