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范曄

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後漢書-列傳[馬援列傳][20-23]

初め、援の軍還り、きて至る、故人多く迎へ之を労す、平陵の人孟冀、計謀有りと名す、座に於いて援を賀す。
援、之に謂ひて曰く、
吾れ子が善言有るを望む、反して衆人に同じきや。
昔、伏波将軍、路に徳をひろ七郡を開置す、わずかに数百戸を封ず。
今、我れ微労し、にはかに大県をけたり、功薄く賞厚し、何を以てか能く長久せんや。
先生、なにを用ひてか相ひすくはん、と。
冀曰く、
愚にして及ばず、と。
援曰く、
まさに今、匈奴、烏桓うがんは北辺をみだす、自ら請ひて之を撃たんと欲す。
男兒たらばかならず当に辺野に於いて死し、以て馬革に屍を裹み還りて葬むらるべきのみ、何ぞ能く床上に臥して兒女子じじょしの手中に在らんや、と。
冀曰く、
まことに烈士と為らば、当に此の如くなるかな、と。
還りて月余、匈奴、烏桓の扶風ふふうに寇するに会ひ、援、三輔さんぽ侵擾しんじょうされ,園陵えんりょう危逼きひょくなるを以て、因りて行かんと請ひ、此れを許す。
九月より京師に至り、十二月に復た出でて襄国に屯す。
百官に詔し祖道そどうす。
援、黄門郎の梁松りょうしょう竇固とうこに謂ひて曰く、
凡人の貴ならんと為さば、当に賤なる可くせしむ、卿等けいらの如きは復た賤なる可からざるを欲す、高に居ては堅く自らを持し、勉めて鄙言ひげんを思へ、と。
松、後に果たして貴満を以て災を致し、固も亦たほとんど免れず。
明年秋、援、乃ち三千騎をひきひて高柳より出で、鴈門がんもん、代郡、上谷の障塞じょうさいめぐる。
烏桓候は漢軍の至るを見て、虜遂に散去さんきょす、援、得る所無くして還る。
援、嘗て疾有り、梁松来りて之をこうす、独り床下に拝す、援、答えず。
松の去りて後、諸子問ひて曰く、
梁伯孫は帝の婿にして、朝廷に貴重たり、公卿已下いかに之をはばからざる莫し、大人だいじん奈何いかんぞ独り禮を為さざるか、と。
援曰く、
我れ乃ち松が父の友なり。
貴と雖も、何ぞ其の序を失ふを得んや、と。
松、是に由りて之を恨む。

現代語訳・抄訳

馬援の軍が南越遠征より凱旋した。
旧知の人々が出迎えて慰労する中、平陵の人で孟冀という計謀を以て世に知られる人物がおり、祝賀会においてお祝いの言葉を述べた。
馬援が孟冀に云った。
私はあなたならば善言を呈してくれるかと思っていたのに、期待に反して他の人達と同じ平凡なものとは残念で仕方がありません。
昔、漢の伏波将軍である路博徳は南越に進攻して行く先々に徳を広め、攻略した領土に七郡を設置され、その功績を以て数百戸の恩賞を得ました。
今回、私もまた伏波将軍を任じられて南越攻略に赴き、わずかばりの功労を以て大県を賜るという多大な恩賞を授かることを得ました。
これは功は薄いのに賞が厚いというもので、このままでは長久を得ることなど叶わぬでありましょう。
先生は如何にすれば私はこの問題から救われると考えられますか、と。
孟冀が答えて云った。
私には考えも及びません、と。
すると馬援が云った。
今、北方の国境は匈奴と烏桓によって乱されておりますが、私はこの遠征を願い出ようかと思います。
男子たらば辺野に死して馬革に屍を裹みて葬られることこそが本懐なのです。
床上に臥して女子供に看取られながら逝くなどということに、どうして堪えられましょうか、と。
孟冀が云った。
真の烈士というものは、当にそのようなものなのでありましょう、と。
帰還して一ヶ月余りが経った頃、匈奴と烏桓が扶風を侵略した。
馬援は国境を越えて御陵にまで侵攻されそうな状況をみて、自ら出陣せんと請い、許可を得た。
九月に都へと入り、十二月に出発して襄国に駐屯した。
光武帝は百官を召し出して見送りの宴を催した。
馬援は黄門郎の梁松と竇固に云った。
凡人が貴ならんとするならば同時に賤しくもなれねばならぬ。
あなた達は賤しからざるを願うばかりであろうが、それではいけない。
高位に上らば自ら節を持して堅く守り、この言葉を常に思うようにせよ、と。
だが、後に梁松は貴至りて獄死し、竇固もまた災いから逃れることはできなかった。
明くる年の秋、馬援は三千騎を率いて高柳を発し、鴈門、代郡、上谷の諸所を巡回した。
この様子をみた烏桓候は侵攻をやめて退却した。
故に馬援は何も得る所無く帰還しすることになった。
かつて馬援が病気にかかった時、梁松が見舞いに訪れ一人床下で挨拶をしたが、何故か馬援は答えなかった。
梁松が帰った後、その理由を皆が尋ねた。
梁伯孫は帝の婿であり、朝廷において重んぜられ、公卿から下の者達に至るまでこれを憚らぬ者はおりません。
馬援殿はどうして一人、梁伯孫に礼を尽くされぬのでありましょうか、と。
馬援は云った。
私は梁松の父の友である。
梁松が尊貴になったとしても、どうしてその序を乱し礼を失することができましょうか、と。
だが、梁松はこのような出来事によって馬援を恨むようになっていったという。

出典・参考・引用
長澤規矩他「和刻本正史後漢書」(二)p610
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語句解説

故人(こじん)
旧友、旧知。また、亡き人の意にも用いる。
七郡(しちぐん)
註釈によると「漢書には南越を平らげて九郡と為したとあるが、今のこの七郡というのは一致しない」とある。
三輔(さんぽ)
漢の長安以東の京兆尹、長陵以北の左馮翊、渭城以西の右扶風のこと。
侵擾(しんじょう)
他国へと侵入して乱すこと。
園陵(えんりょう)
天子や王妃などの墓所。御陵。
危逼(きひょく)
危迫。危険が迫ること。
京師(けいし)
都、天子の居。春秋公羊伝の桓九年に「京師とは天子の居である。京とは大、師とは衆、天子の居は必ず衆大の辞を以てこれを言う」とある。
祖道(そどう)
旅に出発する人に別れを惜しむ宴会のこと。道祖神を祭り、平安を祈るとされる。また、一説には祖は徂であり遠くへゆくの意があるともされる。
竇固(とうこ)
竇固。後漢の武将。光武帝の娘である涅陽公主の夫。辺境に手柄を立てたとされる。
鄙言(ひげん)
自分の言葉をへりくだっていう。
障塞(じょうさい)
砦、要塞。
候(こう)
うかがう。まつ。むかえる。みまもる。あらわれる。
大人(たいじん)
有徳者。また、君主、家長などの代表とする責任者の地位にいる者を指す場合もある。
其の序を失ふ(そのじょをうしなふ)
註釈に「礼記には父の志を同じくする友に会えば、進めといわれなければ進まず、退けと言われなければ退かず、問われなければ決して答えずとあり、鄭玄には父の同志を敬うこと父の如くにあれ」とある。
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