1. 范曄 >
  2. 後漢書 >
  3. 列傳 >
  4. 馬援列傳 >
  5. 1-2
  6. 3-4
  7. 5
  8. 20-23
  9. 24-25
  10. 26

范曄

このエントリーをはてなブックマークに追加

後漢書-列傳[馬援列傳][24-25]

二十四年、武威将軍劉尚りゅうしょう武陵五溪ぶりょうごけい蠻夷ばんいを撃ち、深く入り、軍没す、、因りて復た行を請ふ。
時に年六十二、、其の老いたるをいつくしみて、未だ之を許さず。
援、自ら請ひて曰く、
臣、尚ほ能く甲を被り馬に上す、と。
帝、之を試さしむ。
援、鞍に拠りて顧眄こべんし、以て用ふ可きを示す。
帝笑つて曰く、
矍鑠たるかな是の翁や、と。
遂に援をつかはし中郎将馬武、耿舒こうじょ劉匡りゅうきょう、孫永等を率い、十二郡の募士及び弛刑しけい四萬余人をひきひて五溪を征たしむ。
援、夜に送者とわかれ、友人の謁者えっしゃたる杜愔とあんに謂ひて曰く、
吾れ厚恩を受く、年は余日のつくるに迫り、常に国事に死ぬを得ざるを恐る。
今、願ふ所を獲て、心は甘く瞑目めいもくす、だ畏るるは長者の家兒かじの或いは左右に在り、或いはともに事に従ふ、ことに調を得るに難く、介介かいかいとして独り是をにくむのみ、と。
明年春、軍は臨郷りんきょうに至り、賊の県を攻むるに遭ひ、援、迎撃し、之を破り、二千余人を獲りて斬り、皆な竹林中に入りて散走す。
初め、軍は下雋かぜんやどれり、両道の入る可き有り、壺頭ことうに従はば則ち路近くして水嶮すいけんたり、充則じゅうそくに従はばたいらかにして運ぶに遠し、帝、初め以て疑と為す。
軍の至るに及び、耿舒こうじょは充道に従はんと欲す、援、以為おもへらく日をててりょうを費やさんより、壺頭より進むに如かず、其の喉咽こういんつかまば、充の賊は自ずから破ると。
事を以て之を上す、帝、援の策に従ふ。
三月、進みて壺頭に営す。
賊、高きに乗りてけはしきを守る、水はやく、船は上るを得ず。
暑きの甚だしきに会ふ。
士卒多く疫死えきしす、援も亦た病にあたり、遂に困す、乃ち岸を穿りて室と為し、以て炎気を避く。
賊の險にのぼりて鼓をそうする毎に、援、すなはち足をきて以て之を観る、左右其の壮意を哀れみ、之が為に流涕りゅうていせざる莫し。
耿舒こうじょ、兄の好畤侯こうじこうえんに書して曰く、
前にじょの上書するに当に充を先撃し、糧は運び難しと雖も而して兵馬は用ふるを得、軍人数万争ひて先づ奮はんと欲す。
今、壺頭はつひに進むを得ず、大衆は怫鬱ふつうつとし行死せんとす、誠に痛惜つうせきす可し。
前に臨郷に到り、賊はゆえ無くして自ずから致す、若し之を夜撃せば、即ち殄滅てんめつす可し。
伏波ふくはは西域の賈胡ここに類せり、一処に到りてすなはち止む、是を以て利を失ふ。
今果こんか疾疫しつえきは、皆なじょの言の如し、と。
えん、書を得て、之を奏す。
帝、乃ち虎賁こほん中郎将の梁松りょうしょうを使はしえきに乗りて援を責問せしめ、因りて代はりに軍を監せしむ。
援の病に卒するに会す、松、宿もとより不平をいだけり、遂に事に因りて之をおとしいる。
帝、大ひに怒り、追ひて援が新息侯の印綬を収む。

現代語訳・抄訳

建武二十四年、武威将軍の劉尚が武陵五溪の蛮夷を撃って深入りし、戦陣に没した。
そこで馬援が出陣を願い出た。
この時、六十二歳、光武帝は老いを心配して許さなかった。
馬援は更に懇願して云った。
老いたりと雖も往年の如くに甲冑をまとい、騎馬に乗ることもできます、と。
光武帝が試しにやらせると、馬援は馬上に堂々とした様子でまたがり、用いるべきことを示した。
光武帝が笑って云った。
なんと矍鑠たることよ、この翁は、と。
そして馬援の出陣を許し、中郎将の馬武、耿舒、劉匡、孫永等を付け、各地からの募兵と刑を弛めた者達合わせて四万人余りを率いて五溪征伐へと向かわせた。
馬援は夜に見送りの者達と別れると、友人の杜愔に云った。
厚恩を受けたこの身であるが、老い先短い命となり、常々国家の為に死ねぬことを恐れていた。
今、この願いの叶う所を獲て心底満足しておる。
だが、危惧していることが一つある。
それは権門の子弟達の、ある者は帝の左右に侍り、ある者は職務を共にしたが、どうもその志に合うところが無かったことである。
これを思うと死して後になにかあるのではないかと独り心配するばかりである、と。
年が明けて春となり、臨郷に至った馬援軍は、県を攻める賊軍に遭遇してこれを撃ち破り、二千余人を斬捕し、残りの賊は竹林中へと逃げ込んだ。
下雋に宿営した馬援軍は進軍経路として二つの道を検討した。
壺頭は険しい水路を経るが行路は短く、充則は平坦な路ではあるが輸送を考えると遠い行路であった。
光武帝は決しかねていた。
軍が到着すると、耿舒は充則方面から進攻せんと献言したが、馬援は日数をかけて兵糧を費やすよりは壺頭に進み、敵の喉下を一気に抑えてしまうのが上策で、さすれば充則方面の蛮族も自ずから破れるであろうと考えた。
馬援が光武帝に上書すると、帝は馬援の策に従った。
三月となり、進軍した馬援軍は壺頭に宿営した。
賊軍は高所にある険しい難所を守り、また、急流があって船は進むことができなかった。
進軍が滞るうちに猛暑に遭遇し、士卒の多くが疫病によって死に、馬援もまた病にかかり、困窮した馬援軍は岸辺に穴を掘って部屋をつくり熱気を避けた。
賊が険所に上って軍鼓を打ち鳴らす度に、馬援は足を引きずりながらこれに備えたので、その壮意に皆が感動し涙を流さぬ者はいなかったという。
やがて、この戦況を憂えた耿舒は兄の好畤侯である耿弇に書を送って云った。
以前、私は帝に上書してこう述べました。
先ずは充則を撃つべし、兵糧の運び難きことは確かなれども、兵馬を縦横無尽に用いることができる故に、数万もいる軍人達はこぞって奮い戦うであろうと。
今、我が軍は壺頭にあって一歩も進むことを得ず、兵達は手をこまねいて心ばかりが逸り、無駄に進軍して死なんとする、誠に悲しむべき状況です。
前に我が軍が臨郷に至った時、賊はどういうわけか自ら攻めてまいりました。
もしもこれに夜襲をかければ、易々と殲滅することができたでありましょう。
伏波将軍は西域各地をまわる物売りみたいなもので、集落に至る毎に止まりて売るようなことをしており、故に我等は利を失いました。
今、生じている結果は全て私が危惧した通りになっているのです、と。
耿弇は書を読むと光武帝にこれを上奏した。
光武帝は直ちに虎賁中郎将の梁松を派遣し、伝馬をやって馬援を問責し、兵権を梁松に遷した。
やがて馬援は病で亡くなった。
梁松は以前から馬援に不平を懐いていたので、馬援の死を機会に讒言を行ない、これを陥れんとした。
真に受けた光武帝は大いに怒り、馬援に与えた新息侯の印綬を剥奪してしまった。

出典・参考・引用
長澤規矩他「和刻本正史後漢書」(二)p610-611
関連タグ
後漢書
范曄
古典
  • この項目には「1個」の関連ページがあります。
<<  前のページ  |   ランダム   |  次のページ  >>

語句解説

馬援(ばえん)
馬援。後漢の名将。辺境討伐に功あり。年老いて後も戦場に在ることを求め戦陣にて病没した。「老いてはますます壮んなるべし」などの言葉を残している。
劉秀(りゅうしゅう)
劉秀。後漢の始祖。光武帝。文武両道、民衆に親しまれ、その治世は古の三代にも匹敵したとされる。名君の代表として有名。
顧眄(こべん)
あたりを見まわす。自ら誇る意を持つ。
弛刑(しけい)
刑をゆるめること。
謁者(えっしゃ)
官名。来客の取次ぎを司る職。
瞑目(めいもく)
目を閉じること。転じて、安らかに死ぬこと。
介介(かいかい)
人と相容れず不安な様。
喉咽(こういん)
のど。
流涕(りゅうてい)
泣く。涙を流すこと。
耿弇(こうえん)
耿弇。後漢創業の功臣。用兵に優れ向かうところ敵無し。斉平定を成し遂げ「志有らば事はついに成るものだ」と感嘆せしめた。
怫鬱(ふつうつ)
心がふさがり、むかむかする様。
痛惜(つうせき)
ひどく残念がること。甚だ残念に思う。
殄滅(てんめつ)
殲滅。滅ぼし絶やすこと。
賈胡(ここ)
西域の商人のこと。また、夷狄の商人。
疾疫(しつえき)
流行病。はやりやまい。
驛(えき)
駅。駅伝。長く乗り継ぐ駅車。
<<  前のページ  |   ランダム   |  次のページ  >>

関連リンク

理想、目標、自らの信じる所。自分の心の覆うべからざる部分の発揚で…
縦横無尽
物事を思う存分にやること。何事にも捉われずに自由自在に行うこと。…


Page Top