范曄
後漢書-列傳[馮岑賈列傳][31-32]
六年冬、
復た南の津郷に還る、詔有り家過ぎて
八年、彭、兵を引きて
時に公孫述が将の李育、兵を
彭に書を勅して曰く、
両城
人の足るを知らざるに苦しむ、既に隴を平らげ、復た蜀を望む。
一たび兵を発する毎に、
彭、遂に谷水を
漢軍食尽く、
囂、兵を出だして諸営を
彭、津郷に還る。
現代語訳・抄訳
建武六年の冬、光武帝は岑彭を召して都に迎え、時間が空くと度々呼び寄せ、厚く賞賜を与えた。
しばらくして岑彭は南の津郷に戻り、詔を受け、家には入らず墓参りをした。
皇后は大長秋を使わして岑彭の母を慰問させた。
建武八年、岑彭は兵を率いて光武帝に従って天水を攻略し、呉漢と共に隗囂が立て篭もる西城を囲んだ。
この時、公孫述の配下である李育が隗囂の救援に駆けつけて上邽に入ったので、光武帝は蓋延と耿弇に包囲させ、自身は都へと帰還した。
光武帝は岑彭に書を送って云った。
両方の城が落城したならば、直ちに兵を率いて南の蜀を攻略せよ。
人は足るを知らざるが故に苦しむというが、既に隴を平らげたにも関わらず今度は蜀が欲しくなってしまった。
一たび兵を発する度に欲が生じ、我が頭髪も鬚も白くなるばかりである、と。
岑彭は谷の水を塞いで西城に水攻めを仕掛けた。
西城は水で浸されたが、水に囲まれる前に隗囂の配下である行巡と周宗が蜀からの救援の兵を率いて駆けつけたので、隗囂は城から出て冀県(天水)へと脱した。
やがて漢軍は兵糧が尽きたので、岑彭は輜重の車を焼いて兵を率いて隴から退却を開始し、これに同調して蓋延と耿弇も退却した。
この様子に好機とみた隗囂は追撃を開始したが、岑彭が殿を務めて防いだので、他の諸将は兵を損なうことなく都に帰還することができた。
岑彭は津郷へと還った。
- 出典・参考・引用
- 長澤規矩他「和刻本正史後漢書」(二)p527-528
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語句解説
- 岑彭(しんほう)
- 岑彭。後漢創業の功臣。用兵に巧みで敵から神業と嘆賞される。軍規を正し、略奪を一切行わなかった。
- 京師(けいし)
- 都、天子の居。春秋公羊伝の桓九年に「京師とは天子の居である。京とは大、師とは衆、天子の居は必ず衆大の辞を以てこれを言う」とある。
- 讌見(えんけん)
- 宴見。君主の暇なときに謁見すること。
- 賞賜(しょうし)
- 功労に対して賞を与えること。
- 上冢(じょうちょう)
- 墓参り。
- 大長秋(だいちょうしゅう)
- 皇后の属官。
- 朔望(さくぼう)
- 陰暦の一日と十五日のこと。その日に朝謁する礼があった。
- 太夫人(たいふじん)
- 列侯の母の意。岑彭は建武三年に舞陰侯として諸侯になっているので、岑彭の母を指すと思われる。
- 車駕(しゃが)
- 天子の乗物。天子が車で出かけること。転じて天子の敬称としても用いる。
- 呉漢(ごかん)
- 呉漢。後漢の武将。岑彭と共に公孫述を討ち蜀を平定。豪胆にして戦陣において顔色一つ変えなかったとされる。
- 隗囂(かいごう)
- 隗囂。前漢末の武将で、光武帝劉秀と覇権を争い隴西を拠点として勢力を得た。晩年、窮地に陥り公孫述に臣従して光武帝と対抗するも病死。死去の一年後に勢力は滅亡した。
- 公孫述(こうそんじゅつ)
- 公孫述。前漢末に巴蜀の地に覇を唱え、光武帝劉秀と最後まで覇権を争った群雄。虚栄心の強い人物として描かれる。
- 蓋延(こうえん)
- 蓋延。後漢の武将。劉秀に従い建国に功あり。身長八尺にして武勇に名高く豪傑であったとされる。
- 耿弇(こうえん)
- 耿弇。後漢創業の功臣。用兵に優れ向かうところ敵無し。斉平定を成し遂げ「志有らば事はついに成るものだ」と感嘆せしめた。
- 頭鬚(とうしゅ)
- 頭髪とひげのこと。
- 輜重(しちょう)
- 武器や食糧などの軍用物資のこと。
- 尾撃(びげき)
- 逃げる相手を追撃すること。
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