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范曄

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後漢書-列傳[馬援列傳][5]

建武四年冬、ごうを使はして洛陽に書を奉ぜしむ。
援至り、宜徳殿に引見す。
世祖、迎へて笑ひ援に謂ひて曰く、
卿は二帝の間を遨遊ごうゆうす、今卿にまみゆ、人をして大いにずかしむ、と。
援、頓首とんしゅして辞謝じしゃし、因りて曰く、
当今の世、独り君の臣を択ぶに非ざるなり、臣も亦た君を択ばん。
臣と公孫述は同県たり、わかきに相ひ善し。
臣、前に蜀に至り、述は陛戟へいげきして後に臣を進む。
臣、今遠来す、陛下は何ぞ刺客姦人に非ざるを知りて、簡易なるを是の若くなるや、と。
帝、復た笑ひて曰く、
卿は刺客に非ず、おもふに説客ならんのみ、と。
援曰く、
天下反覆し、名字を盗める者のげて数ふ可からず。
今、陛下に見ゆ、恢廓大度にして、高祖と同じうす、乃ち帝王の自ずから真有るを知るなり、と。
帝、甚だ之を壮とす。
援、従ひて南の黎丘にこうし、転じて東海に至る。
還るに及びて、以て待詔たいしょうと為す、太中大夫来歙らいきゅうを使はして節を持して援を送らしめ西の隴右に帰す。

現代語訳・抄訳

建武四年の冬、隗囂は馬援を使者として洛陽の光武帝のもとに書を奉じた。
洛陽に到着した馬援は、宜徳殿で光武帝に謁見した。
光武帝は馬援を笑顔で迎えて云った。
貴方は隗囂と公孫述に会っていると聞いているが、今日あなたとお会いして、自分が他の二人の帝に及ばぬのではないかと恥かしい気持ちで一杯である、と。
馬援は頓首して礼を表してから云った。
今の世の中では君が臣下を択ぶように、臣下もまた仕えるべき君主を択びます。
私と公孫述とは同郷で幼き頃より仲の善い友人でありました。
然るに私が蜀を訪ねると、公孫述は仰々しく護衛の兵を連ねて私に会いました。
今、私は遠方より突然来たりて陛下にお会いしております。
陛下は、どうして私が刺客などではないと判断して斯様に簡易なる場にてお会いになさるのでありましょうか、と。
すると光武帝は再び笑いながら云った。
貴方は刺客などではありません。
私が思うに貴方は諸国を遊説する説客のようなものでありましょう、と。
馬援は云った。
天下は混乱して帝を名乗る者は数多くおりますが、どれも数えるには足りません。
今日、陛下にお会いして、高祖・劉邦の如き恢廓大度なる様に、真の帝王というものは自ずから真を感じさせるものであることを悟りました、と。
光武帝は馬援を壮士なりと認め、共に南の黎丘に行幸し、更には東海にまで至った。
再び都に戻ると、馬援を待詔とし、太中大夫の来歙に使者の印を持たせて隗囂の元に遣わし、馬援を西方の隴右に帰らせた。

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語句解説

隗囂(かいごう)
隗囂。前漢末の武将で、光武帝劉秀と覇権を争い隴西を拠点として勢力を得た。晩年、窮地に陥り公孫述に臣従して光武帝と対抗するも病死。死去の一年後に勢力は滅亡した。
馬援(ばえん)
馬援。後漢の名将。辺境討伐に功あり。年老いて後も戦場に在ることを求め戦陣にて病没した。「老いてはますます壮んなるべし」などの言葉を残している。
劉秀(りゅうしゅう)
劉秀。後漢の始祖。光武帝。文武両道、民衆に親しまれ、その治世は古の三代にも匹敵したとされる。名君の代表として有名。
遨遊(ごうゆう)
気ままに遊び暮らすこと。
頓首(とんしゅ)
頭を地面に打ちつけるようにしてする敬礼のこと。後に上表や書簡の最後につけて敬意を表すことばになった。
辞謝(じしゃ)
挨拶する。ことわりの言葉を述べて辞退すること。辞退。
公孫述(こうそんじゅつ)
公孫述。前漢末に巴蜀の地に覇を唱え、光武帝劉秀と最後まで覇権を争った群雄。虚栄心の強い人物として描かれる。
陛戟(へいげき)
宮殿の階段の下で戟を持った兵士が護衛すること。また、その兵士を指す。
劉邦(りゅうほう)
劉邦。前漢の始祖。秦を滅ぼし、項羽と天下を争う。野人なれども不思議と人が懐き、「兵に将たらざるも、将に将たり」と称せられた。
幸(こう)
天子が出かける場合に用いる。
待詔(たいしょう)
才能が優れていることから天子に召しだされているが、まだ正式には官に任命されていないこと。
来歙(らいきゅう)
来歙。後漢創業の功臣。隗囂討伐に功あり、公孫述討伐において刺客により暗殺。その死の直前に号泣する蓋延を一喝して後事を託した。
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