1. 范曄 >
  2. 後漢書 >
  3. 列傳 >
  4. 隗囂公孫述列傳 >
  5. 3-5
  6. 19
  7. 41-43
  8. 44-45

范曄

このエントリーをはてなブックマークに追加

後漢書-列傳[隗囂公孫述列傳][19]

六年、関東ことごとく平らぐ。
、苦を兵間に積み、ごうの子は内侍ないじし、公孫述は遠く辺垂へんすいに拠するを以て、乃ち諸将に謂ひて曰く、
しばらく此の両子は度外に置くべきのみ、と。
りてしきりろう、蜀へ騰書とうしょし、禍福を告示す。
囂の賓客、掾史えんしに文学生多し、事を上所する毎に、当世の士大夫皆な之を諷誦ふうしょうす。
故に帝は辞荅じとうする所有らば、もっとも意の如し。
囂、復た周游を遣はしてけつを詣でせしめ、先づ馮異ふういの営に到り、游は仇家の殺す所と為る。
帝、衛尉銚期ちょうきつかはし、珍宝繒帛そうはくを囂に賜ふも、期は鄭に至りて盗を被り、財物を亡失す。
帝、常に囂を長者と称し、務めて之を招かんと欲するも、聞きて歎じて曰く、
吾れは隗囂かいごうともに事を欲すもかなはず、使の来たりて殺さるを見、賜を得て道に亡ふ、と。

現代語訳・抄訳

建武六年、関東を平定した光武帝・劉秀は、長年の兵役と、隗囂が長子である隗恂を内侍させたこと、公孫述の拠点は遠く辺境にあることから、諸将に対して云った。
しばらくの間、隗囂と公孫述の二人は度外視すべし、と。
そして各々の拠点である隴西、巴蜀の地へとたびたび伝書を送り、禍福を告示した。
隗囂の賓客や配下には文学士が多く、その上書はみごとであったので、上書がある度に当時の士大夫はこぞって暗誦する程であった。
故に光武帝は隗囂への返書には殊更に意を加えた。
隗囂が周游を使者として来朝させた際、周游は馮異の陣営で仇敵によって殺されてしまい、また、光武帝は衛尉の銚期を使者として隗囂に財物を届けさせようとしたが、銚期は鄭において財物を盗まれてしまった。
光武帝は常に隗囂を長者として称え、務めてこれを招きたいと欲していたが、これらを聞いて歎じて云った。
吾れは隗囂と共に事を成し遂げんと思うも、それは適わぬようだ。
使者は来るも仇に殺され、賜物を送るも途中で失ってしまった、と。

出典・参考・引用
范曄著・章懐太子注・鈴木義宗点「後漢書」28/50
関連タグ
後漢書
范曄
古典
  • この項目には「1個」の関連ページがあります。
<<  前のページ  |   ランダム   |  次のページ  >>

語句解説

劉秀(りゅうしゅう)
劉秀。後漢の始祖。光武帝。文武両道、民衆に親しまれ、その治世は古の三代にも匹敵したとされる。名君の代表として有名。
隗囂(かいごう)
隗囂。前漢末の武将で、光武帝劉秀と覇権を争い隴西を拠点として勢力を得た。晩年、窮地に陥り公孫述に臣従して光武帝と対抗するも病死。死去の一年後に勢力は滅亡した。
公孫述(こうそんじゅつ)
公孫述。前漢末に巴蜀の地に覇を唱え、光武帝劉秀と最後まで覇権を争った群雄。虚栄心の強い人物として描かれる。
辺垂(へんすい)
辺境のこと。国ざかい、国境。
騰書(とうしょ)
伝書のこと。
掾史(えんし)
下級の官吏のこと。
諷誦(ふうしょう)
詩文などを暗誦すること。「ふうじゅ」「ふじゅ」とも読み、この場合は声を上げて経や偈を読むことをいう。
辞荅(じとう)
「荅」は答えるに通ず。故に返答の言葉のようなものであろう。
闕(けつ)
門観。宮殿の門。
馮異(ふうい)
馮異。後漢建国の功臣。光武帝には「恩は父子の如し」と称せらる。謙虚にして誇らず、諸将が功を論ずる際には常に樹の下に座って加わらなかったことから士卒に「大樹将軍」と呼ばれ親しまれたという。
繒帛(そうはく)
きぬ。繒はきぬの総称。
<<  前のページ  |   ランダム   |  次のページ  >>


Page Top