韓非
韓非子-解老[14]
衆人の神を用ふるや
聖人の神を用ふるや静、静は則ち費少し、費の少きを之れ
嗇の術なるや道理に生ず。
夫れ能く嗇なるや、是れ道に従ひて理に服する者なり。
衆人は患に
聖人は未だ患禍の形を見ざると雖も、虚無にして道理に服従し、以て
故に曰く、夫れ
現代語訳・抄訳
衆人の精神を用いるや急躁にして、労費すること甚だしく、故にこれを侈と謂う。
聖人の精神を用いるや静寂にして、労費せざるして安んず、故にこれを嗇と謂う。
嗇はその身に道理ありて生ずるものである。
故に嗇にしてその精神を養えば、遂には道に従い理に通ずるものなのである。
衆人は患えて惑い、禍に陥るも、自反せずして節操なく、少しも道理に服従することが出来ないが、聖人は患禍が生ぜぬうちから虚無の中に在りて道理に服従する。
そこで虚無の間に道理に通ずるを早服と名付けるのである。
故に老子は、夫れ唯だ嗇なり、是を以て蚤服す、と云うのである。
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