沈徳潜
唐宋八家文読本-韓愈[原道][1]
是に由りて
仁と義を定名と為し、道と徳を虚位と為す。
故に道に君子有り小人有り、而して徳に凶有り吉有り。
老子の仁義を小とし、之を
井に坐して天を観るに、天を小と曰ふは、天の小なるに非ざるなり。
彼の
其の謂ふ所の道は、其の道とする所を道とし、吾が謂ふ所の道には非ざるなり。
其の謂ふ所の徳は、其の徳とする所を徳とし、吾が謂ふ所の徳には非ざるなり。
凡そ吾が謂ふ所の道徳と云ふ者は、仁と義を合わせて之を言ふなり、天下の公言なり。
老子の謂ふ所の道徳と云ふ者は、仁と義を去って之を言ふなり、一人の私言なり。
現代語訳・抄訳
博愛を仁と云い、宜しきを義と云い、義に由りてゆくを道と云い、己を尽して全てを己に帰するを徳と云う。
仁と義は誰が為すとも必ず善にして定まり、道と徳は人に由りて違いが生ずる。
故に道には君子小人の別があり、徳には吉凶善悪の別がある。
老子は仁義を小なりとして取るに足らないものと論ずるが、それは自分で勝手に小としているだけである。
これは井に坐して天を観るという類いであって、井戸の底に座って天を見上げて天を小なりと云おうが、実際に天が小である訳では無い。
単なる情けをかけることを仁と為し、孤高の如く見えてその実は単に己に没しているだけのことを義と称する、そのようなものしか見えぬのならば、仁義を小なりとするのも当然のことであろう。
彼等が道と云う所は、彼等が道とする所を道と呼んでいるのであって、吾が道とする所とは異なるし、彼等が徳と云う所も、彼等が徳とする所を徳と呼んでいるだけであって、吾が徳とする所とは異なるのである。
大体において、吾が道や徳とする所が何かと云えば、全て仁義に由るのである。
仁義は必ず善に赴くと定まりしが故に、これは万世に通ずる道理なのである。
然るに、老子が道や徳とする所が何かと云えば、仁義を小なりとして去ってしまっているのである。
これでは道徳を善に向かわせるべきものが定まらぬが故に、自分一個の私言に堕してしまうと云えるであろう。
- 出典・参考・引用
- 伊藤銀月(銀二)著「古文新釈」153/201,沈徳潜編・岡三慶述・小沼操記「唐宋八大家文講義」8-9/95
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語句解説
- 老子の仁義を小とし(ろうしのじんぎをしょうとし)
- 「大道廃れて仁義あり」に見えるように老子は仁義すら生じぬ境地を説いている。
- 非毀(ひき)
- そしること。
- 煦煦(くく)
- 情けをかける様、和楽する様。
- 孑孑(けつけつ)
- 孤独な様、小さな様。
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