荘子
荘子-雑篇[則陽][8]
未だ嘗て此れを是とするに始めて
萬物の生ずる有りて其の根を見る莫く、出づる有りて其の門を見る莫し。
人皆な其の知の知る所を尊びて、而して其の知の知らざる所を
現代語訳・抄訳
蘧伯玉は年六十にして六十化すに至った。
化するに至ってこれを是とするも更に年を経てそこに化するに及べば、いま是とする所は非となるのであるから、いま謂うところの六十化して是とせし所は、五十九年の非の至りである。
故に化するに至らば是非などは生じぬと謂えよう。
万物は生じて形あるもその根本を見ることは出来ぬし、変化窮まり無くしてその所以を見ることも出来ぬ。
人は皆、有形なるを知りてこれを尊ぶが、無形なるに感じて通じ、然る後に知るということの有るを知ること無きは、なんと不思議なことであろうか。
さてさて斯様なことを論じても仕方が無いことではある。
いずれにしろ是非の定まらざるは、これも是とせしも、このように語りし所の是非も又、知る由もないのだから。
- 出典・参考・引用
- 田岡嶺雲訳註「和訳老子・和訳荘子」201/259,久保天随著「荘子新釈」59/165
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