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司馬遷

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史記-世家[齊太公世家][1-9]

太公望呂尚は、東海のほとりの人なり。
其の先祖はかつ四岳しがくと為り、たすけて水土を平らげ甚だ功有り。
虞夏ぐかの際に呂に封ぜられ、或いは申に封ぜられ、姓はきょう氏なり。
夏商かしょうの時、申、呂或いは枝庶ししょを封じ子孫或いは庶人と為り、しょうは其の後の苗裔びょうえいなり。
本姓は姜氏、其の封に従がふ、故に曰く呂尚と。
呂尚けだし嘗て窮困し、年老ゆ。
漁釣ぎょちょうを以て周の西伯のぞむ。
西伯まさに出でて猟せんとし、之をぼくす。
曰く、
獲る所は龍に非ずに非ず、虎に非ずに非ず。
獲る所は覇王の輔ならん、と。
是に於いて周の西伯は猟し、果たして太公にきたに遇ふ。
ともに語り大いによろこびて曰く、
吾が先君太公より曰く、まさに聖人有りて周にくべし、周以て興らんと。
子は真に是れなるか。
吾が太公、子を望むこと久し、と。
故に号して曰く、太公望と。
載せてともともに帰り、立ちて師と為す。
或いは曰く、
太公は博聞はくぶんかつちゅうつかふ。
紂は無道、之を去る。
諸侯に游説ゆうぜいし、遇ふ所無く、而してつひに西し周の西伯に帰す、と。
或いは曰く、
呂尚は処士しょし海濵かいひんに隠る。
周の西伯は羑里ゆうりとらはれ、散宜生さんぎせい閎夭こうようもとより知りて、而して呂尚を招く。
呂尚亦た曰く、吾れ西伯は賢にして、又た善く老を養ふを聞く。
なんぞ往かざらんと。
三人は西伯の為に美女奇物を求め、之を紂に献じ、以て西伯をあがなふ。
西伯以て出るを得、国に反る、と。
呂尚の周に事ふる所以を言ふに異なりと雖も、然れども之を要するに文武の師と為す。
周の西伯昌の羑里を脱れて帰し、呂尚とともひそかに謀り徳を修めて以て商政を傾く。
其の事、兵権と奇計多し。
故に後世の兵及び周の陰権を言ふに皆な太公を宗とし本謀と為す。
周の西伯の政平かなりて、虞芮ぐせいの訴へを断ずるに及び、而して詩人は西伯の受命を称す。
崇、密須、犬夷を伐ち、大いに豊邑を作す。
天下を三分し、其の二を周に帰すは、太公の謀計に居ること多きなり。
文王崩じ、武王即位す。
九年、文王の業を修め、東を伐ち以て諸侯の集否を観んと欲す。
師行くに、師尚父ししょうほは左に黄鉞こうえつを杖とし、右に白旄はくぼうり以て誓ひて曰く、
蒼兕そうじ蒼兕、なんじの衆庶をすべよ、爾の舟楫しゅうしゅうともにせよ、後れて至る者は斬らん、と。
遂に盟津もうしんに至る。
諸侯の期せずして会する者、八百諸侯。
諸侯皆な曰く、
紂を伐つ可きなり、と。
武王曰く、
未だ可ならず、と。
師を還し、太公とともに此に太誓たいせいを作る。
居ること二年、紂は王子比干ひかんを殺し、箕子きしとらふ。
武王将に紂を伐たんとし、卜するに亀兆きちょうは、不吉なり、風雨にわかに至る。
羣公ぐんこうの尽くおそるるに、唯だ太公は之を強ひて武王に勧め、武王は是において遂に行く。
十一年正月甲子きのえね、牧野に誓ひ、商紂を伐つ。
紂の師、敗績はいせきす。
紂、反りて走り、鹿台ろくだいに登るに、遂に追ひて紂を斬る。
明日、武王は社を立て、羣公は明水を奉し、衛の康叔封こうしゅくほう采席さいせきき、師尚父はいけにえき、史佚しいつ策祝さくしゅくし、以て神に告げて紂の罪をとうす。
鹿台の銭を散じ、鉅橋きょきょうの粟を発し、以て貧民に振ふ。
比干を墓に封じ、箕子の囚を釈す。
九鼎きゅうていを遷し、周政を修め、天下を更始こうしす。
師尚父の謀に居ること多きなり。
是に於いて武王は已に商を平らげて天下に王たり。
師尚父を斉の営丘に封ず。
東し国に就くに、道に宿し行くに遅し。
逆旅げきりょの人曰く、
吾れ聞くに時は得難く而して失い易しと。
客寝て甚だ安んず、ほとんど国に就く者に非ざるなり、と。
太公は之を聞き、夜にて行き、黎明れいめいに国に至る。
萊侯らいこう来たりて伐ち、之と営丘に争ふ。
萊人は、夷なり、紂の乱に会ひて周の初め定まるも、未だ遠方を集する能はず、是を以て太公と国を争ふ。
太公は国に至り、政を修め、其の俗に因りて、其の禮を簡にし、商工の業を通し、魚塩ぎょえんの利を便うるはし、而して人民多く斉に帰し、斉は大国と為る。
周の成王わかき時に及び、管蔡かんさいは乱をし、淮夷わいいは周にそむき、乃ち召康公をして太公に命ぜしめて曰く、
東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る。
五侯九伯、実に之を征するを得せしむ、と。
斉は此に由りて征伐を得、大国と為る。
営丘を都とす。
蓋し太公卒して百有余年、子の丁公呂伋りょきゅう立つ。
丁公卒し、子の乙公得立つ。
乙公卒し、子の癸公慈母立つ。
癸公卒し、子の哀公不辰立つ。

現代語訳・抄訳

太公望の呂尚は東の海岸地帯の人である。
その先祖は四岳として禹を補佐し、その治水工事を助けて多大な功があった。
帝舜や禹の夏王朝の頃には呂の地、あるいは申の地に封ぜられ、姓は姜氏と云った。
夏王朝から殷王朝の時代、申や呂にいた子孫は封土を与えられる者も居れば庶人となる者も居り、太公望はその苗裔である。
本姓は姜氏であったが、その封土の地名に従がって呂尚と称した。
呂尚は貧賤のまま年を重ね、老に至ったが、魚釣りを機会にして周の西伯・文王と語らんと目論んでいた。
ある時、文王が猟をせんとして出発前に卜したところ、卜辞に曰く、
猟の獲物は龍でも蛟でも虎でも羆でもない、覇業を成すに足る補弼の臣を得るであろう、と。
文王が猟に行くと、果たして渭水の畔で釣りをしている太公望に出会った。
共に語り大いに悦んで文王が云った。
吾が先君たる古公亶父曰く、当に聖人有りて周に適くべし、周は以て興隆せんと。
あなたは当にその願っていた人物に違いない。
吾が太公は、あなたを長い間待ち望んでいたのだ、と。
こうして呂尚は太公望と号され、文王と共に周へと行き、文王は太公望を以て師と称えたのである。
また、他の伝承には次のようにある。
太公望は博聞であった。
嘗ては紂に仕えていたが、紂の無道なるが故に去り、諸侯に遊説したが満足できる相手は居らず、遂に西へと赴いて周の西伯・文王に出会い仕えるに至った、と。
更には次のような伝承もある。
呂尚は在野の士人であり、海辺に隠遁していた。
周の文王が紂によって幽閉された際、呂尚の人物を知っていた散宜生と閎夭は呂尚を招いた。
呂尚は謂った、吾れは西伯の賢にして孝に厚きを知る。どうして往かぬなどということがあろうかと。
そして三人は文王の為に美女や奇物を集めて紂王に献上し、代わりに文王を解放させ、これによって文王は無事に国に戻ることができたのである、と。
呂尚の周に仕えるに至る所以は諸説あるが、いずれにしろ呂尚は文王武王に師として崇められたのである。
幽閉から脱して国へと帰った文王は、呂尚と共に密に謀って徳を修め、以て殷の政を傾けさせた。
これには優れた軍隊統御と先を見据えた深謀が巡らされていた所以である。
故に後世の兵や謀を語る場合に、誰しもが太公望を宗とし本とするようになったのであろう。
周の文王は仁政によって善く治めたので、その徳望を聞いて周りの国々が頼るにまで至った。
これを詩人は文王が世を統べるは天命であると称えた。
文王は崇、密須、犬戎を討伐し、周は大いに栄えて天下を三分してその二を有すにまでになったが、これは太公望の深謀に因るところが多いのである。
やがて文王が崩御して武王が即位した。
即位して九年、武王は文王の位牌を戴いて文王の業を修めんことを示し、以て殷の在る東方へと出陣して諸侯の動向を観んとした。
武王の軍は出陣し、師尚父・呂尚は左に黄金の鉞を手にし、右に白旄の旗を持って誓って云った。
諸侯よ諸侯よ、汝の治めし人民を統べよ、汝に仕えし臣下と共にせよ、後れて至る者あらば斬らん、と。
そして遂に盟津に到着した。
特に盟約をした訳でもないのに、集まった諸侯は八百にも及んだ。
諸侯は皆な云った。
今こそ紂を討つ好機です、と。
だが武王は云った。
まだその時宜ではない、と。
そして軍を引き返し、太公望と共に太誓を作して異日に期することを諸侯に誓った。
二年を経て、紂が諫めを厭うて王子の比干を殺し、宰相の箕子を幽閉するに至ると、武王は紂を討伐せんと欲してこれを卜した。
すると卜辞には不吉と出、更には突如として激しい風雨が生じた。
これを見た諸侯は懼れて出陣を忌んだが、太公望だけは出陣するように強く武王に勧めたので、遂に武王は紂討伐を決心した。
十一年の正月甲子、武王は牧野において牧誓を作し、紂王を討伐した。
紂の軍は敗績し、紂は敗北を知ると鹿台へと走ったが、やがてその鹿台にて殺された。
翌日、武王は社を立て、諸侯は明水を奉げ、衛の康叔封は采席を設け、太公望は生贄を牽き、史佚は策祝して、紂の罪を神に告げてその討伐した所以を示した。
そして鹿台、鉅橋に蓄えられていた財宝、食糧の類いを貧民に分け与え、比干を墓に埋葬し、幽閉されていた箕子を解放し、更には九鼎を遷して周の政によって世を治めて安んじ、天下を新ためた。
これらは全て太公望の謀に由ることが多いといえるであろう。
ここにおいて遂に武王は殷王朝を滅亡させ、天下に王者として立ち、太公望を斉の営丘の地に封じた。
太公望は東の斉へと旅立ったが、途中で宿泊するなど、それほど急ぐこともなく向かっていた。
その様子を見た旅館の主人が云った。
私はこのように聞いています、時は得難くして失い易しと。
お客様はとてもゆっくりとして少しも急ぐ気配がありません。
国に赴く者のあり方には少しも見えません、と。
これを聞いた太公望は反省し、夜のうちに出発して明け方には斉へと至った。
そこに丁度、萊侯が攻めて来て営丘で争いになった。
萊人は夷狄である。
紂を討伐して周の世となったが、その統治は辺境までは行き届かず、故に太公望と斉を巡って争いになったのである。
斉へと到着した太公望は、仁政を引いて民を安んじ、その地の風俗に合わせて礼法を布き、商工を滞りなく行なわせ、特産品の海産物によって国政を潤したので、斉には多くの人々が集まって次第に大国へと為っていった。
やがて武王が崩御して成王の世となると、管叔と蔡叔が殷の紂王の子である武庚を擁立し、更には東部の淮夷と連合して反乱を起こした。
成王は召康公に命じて太公望に告げて云った。
東は海に至るまで、西は黄河に至るまで、南は穆陵に至るまで、北は無棣に至るまで、五等の諸侯、九州の伯に、その罪あるを得たらば討伐することを許す、と。
此れによって斉は征伐の権限を与えられ、大国となったのである。
斉は営丘を都とした。
やがて太公望は百余歳で卒し、子の丁公・呂伋が代わりに立った。
丁公が卒すると代わりに子の乙公・得が立ち、乙公が卒して代わりに子の癸公・慈母が立ち、癸公が卒して代わりに子の哀公・不辰が立った。

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語句解説

四嶽(しがく)
四岳。堯や舜の時代に四方の諸侯をおさめた官名。
禹(う)
禹。夏王朝の始祖で伝説の聖王。父の業を継いで黄河の治水にあたり、十三年間家の前を通っても入らなかった。後、舜に禅譲されて王となる。
枝庶(ししょ)
分家。
苗裔(びょうえい)
遠い子孫のこと。
漁釣(ぎょちょう)
魚を釣ること。釣り。
文王(ぶんおう)
文王。周の武王の父で西伯とも呼ばれる。仁政によって多くの諸侯が従い、天下の三分の二を治めたという。
彲(ち)
竜の一種。角無き竜形の獣で山の神。蛟(みずち)ともされる。
羆(ひ)
熊の一種でひぐまのこと。
古公亶父(ここうたんぽ)
古公亶父。周の先祖で文王の祖父。善政を布いて周は盛隆。武王が殷の紂王を討った後に太王の尊号をおくる。
博聞(はくぶん)
広く見聞すること。広く聞き知っていること。
紂王(ちゅうおう)
紂王。殷の三十代皇帝で暴君の代表。帝辛。材力人に過ぎ勇猛であったが無道にしてその治世は乱れ、周の武王によって滅ぼされた。
処士(しょし)
處士。教養がありながら官に仕えないもの。在野の士人。
羑里(ゆうり)
殷の獄舎の名前。西伯の文王はここに幽閉された。
散宜生(さんぎせい)
散宜生。周の賢臣。文王四友の一人。武王の代には殷を討伐を補佐し、創業を援けた。
閎夭(こうよう)
閎夭。周の賢臣。文王の四友の一人。
虞芮(ぐせい)
どちらも小国の名前。
武王(ぶおう)
武王。周王朝の始祖。太公望を擁して殷討伐を成し遂げた。
黄鉞(こうえつ)
黄金で飾った鉞。王の専征に用いる。
白旄(はくぼう)
白いからうしの尾をさおの先につけた旗。軍隊の指揮官が指揮をするのに用いる。
蒼兕(そうじ)
注に舟を司る官名とある。諸々の舟を司る故にここでは諸侯と解した。
舟楫(しゅうしゅう)
舟とかい。舟の事。転じて天子の政治を助ける臣下のたとえ。
盟津(もうしん)
河南省孟県にある黄河の渡し場。
太誓(たいせい)
宣誓文の名前だと思われる。
比干(ひかん)
比干。殷の忠臣。殷の三仁の一人。紂王の叔父で、紂王の暴政を諫言して殺された。
箕子(きし)
箕子。殷の紂王の叔父。殷の三仁の一人。紂王を諫めるも聞き入れられず、故に狂人を装ったところ幽閉された。後に箕子朝鮮を立てたとされる。
亀兆(きちょう)
かめの甲を焼いてひびわれた占いの印のこと。
甲子(きのえね)
干支で年、月、日をあらわす。この場合は日であろう。この干支の年は徳を備えた人に天命が下される日とされ、また、この干支の日は吉日とされる。
敗績(はいせき)
敗戦。大敗すること。失敗すること。
鹿台(ろくだい)
紂王が財宝を蓄えたとされる倉庫。
康叔封(こうしゅくほう)
康叔封。衛の祖で武王の弟。
采席(さいせき)
美しい席。
史佚(しいつ)
周の史官。史逸とも書かれる。武王即位時に祝文を読んだ。
策祝(さくしゅく)
災難を払う祈り。
鉅橋(きょきょう)
紂王が穀物を蓄えたとされる倉庫。
九鼎(きゅうてい)
王の宝器。夏の禹が九の州から銅を集めて作らせたとされる。
更始(こうし)
古いものをあらためて新しいものをはじめること。
逆旅(げきりょ)
旅館。宿屋。旅人を逆(むか)える所の意。
黎明(れいめい)
夜明け。夜が明けようとする頃。
魚塩(ぎょえん)
海産物のこと。魚鹽。
成王(せいおう)
成王。周王朝二代目。開祖の武王の後を継いで即位。周公旦、太公望、召公等を左右に国をまとめ、次代の康王の治世と共に「成康の治」と讃えられた。
管蔡(かんさい)
管叔と蔡叔のこと。どちらも武王の弟で殷の子孫を建てて反乱を起こした。
淮夷(わいい)
古く淮域にいた沿海族。
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