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呂不韋

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呂氏春秋-審応覧第六[具備][1]

八に曰く、
今、ここ羿げい逢蒙ほうもう繁弱はんじゃく有り、而してげん無くんば、則ち必ずあたる能はざるなり。
あたるは独り弦のみに非ざるなり、而して弦は弓中きゅうちゅうの具なり。
夫れ功名を立つるも亦た具有り、其の具を得ずんば、賢、に過ぐと雖も、則ち労して功無し。
湯嘗て郼薄いはくに約し、武王嘗て畢裎ひっていに窮し、伊尹いいん嘗て庖廚ほうちゅうに居り、太公嘗て釣魚ちょうぎょに隠る。
賢の衰へしに非ざるなり、智の愚なるに非ざるなり、皆な其の具無ければなり。
故に凡そ功名を立つるは、賢と雖も必ず其の具有りて然る後に成る可し。

現代語訳・抄訳

八に曰く、
今、ここに弓の名手たる羿げい逢蒙ほうもうが居り、また良弓たる繁弱はんじゃくが有るも、その弓に弦が無ければ的中することはない。
これは弦に限ったことではなく、そして弦は弓における具のひとつなのである。
されば功名を立てるにおいても具というものがあり、その具を得なければ、賢なること湯武を凌ぐとも、ただ労するだけで功は得られないであろう。
湯王は嘗て郼薄いはくに困約し、武王は嘗て畢裎ひっていに困窮し、伊尹いいんは嘗て料理人として厨房に居り、太公望は嘗て釣りをしながら隠遁していた。
これは賢ならざる故ではなく、智の愚なるが故でもなく、いずれもその具を得なかっただけなのである。
故におよそ功名を立てるには、賢なるとも必ずその具があって後に初めて成るのである。

出典・参考・引用
藤田剣峯訳註「国訳漢文大成」経子史部・第20巻211/411,塚本哲三編「呂氏春秋」280/404
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古典
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語句解説

羿(げい)
羿。弓の名手。夏の諸侯で有窮の君。夏王朝が衰えると政権を奪ったが、自らも享楽に耽ってやがて滅ぼされた。また、神話にも登場し、十の太陽が並び出たとき、その九を射落として地上の灼熱を救ったとある。
逢蒙(ほうもう)
逢蒙。夏王朝時代の弓の名人。羿(げい)に弓を習い、その道を極めたが、天下で自分に勝るのは師である羿のみと考えて殺してしまったという。
繁弱(はんじゃく)
良弓の産出地。また、良弓の名。
湯王(とうおう)
湯王。天乙。成湯。殷王朝の始祖。賢臣伊尹を擁して夏の桀を倒した。後世に聖王として称賛される。
武王(ぶおう)
武王。周王朝の始祖。太公望を擁して殷討伐を成し遂げた。
郼薄(いはく)
地名。湯王がここに困窮したという。注釈に「薄は一本に亳に作る」とある。
畢裎(ひってい)
地名。畢豐。一説には畢郢であるとされる。
伊尹(いいん)
伊尹。殷の名相で阿衡と称される。湯王を補佐して桀を討伐。殷の礎を築く。
庖廚(ほうちゅう)
料理場、台所。
太公望(たいこうぼう)
太公望。呂尚。周の武王を補佐して殷の紂王を討伐。師尚父と尊称される。後に斉に封ぜられて始祖となる。また、中国における軍師の始祖。
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関連リンク

成湯
中国の殷王朝の創始者である湯王のことで、天乙てんいつともいわれる…
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