曾先之
十八史略-殷[湯王]
殷王成湯、子姓、名は
其の先を
帝
母は
主癸の子、
始めて
人をして
用いず。
尹、湯に復帰す。
桀、諫者の
湯、人をして之を
桀、怒りて湯を召し、
湯、出ずるに網を四面に張りて之を祝する有るを見る。
曰く、
天
湯曰く、
乃ち其の三面を解きて、改め祝して曰く、
左せんと欲せば左せよ、右せんと欲せば右せよ、命を用ひざる者は、吾が網に入れ、と。
諸侯、之を聞きて曰く、
湯の徳至れり、
伊尹、湯に相として桀を伐ち、之を
諸侯、湯を尊びて天子と為す。
当に人を以て
湯曰く、
吾が為に請ふ所の者は民なり。
遂に
六事を以て自ら責めて曰く、
政の節あらざるか、民の職を失へるか、宮室の
言
現代語訳・抄訳
殷王の成湯は姓を子、名を履という。
その先祖は帝嚳の子の契である。
契の母は名を簡狄といい、有娀氏の娘であった。
伝説によれば、燕が産み落とした卵を呑みこんで妊娠し、契を生んだという。
契は堯・舜に仕えて司徒となり、商の地に封ぜられて姓を賜った。
契の子を昭明といい、その後、相士、昌若、曹圉と続いた。
曹圉の子は冥で、冥の子を振、振の子を微といい、更に報丁、報乙、報丙、主壬、主癸と続く。
そして主癸の子を天乙といい、これが湯である。
湯は先王である嚳の居に従って、亳に都をおいた。
そして伊尹という賢人に使者を遣って丁重に進物を持たせて招聘し、夏王の桀に推挙したが桀はこれを用いなかったので、伊尹は湯のもとへと戻った。
桀は享楽に溺れ、これを諫言した関龍逢という者を殺した。
湯がその死を悼んで懇ろに弔うと、桀は激怒して湯を夏台に幽閉したが、しばらくすると釈放された。
ある日、湯が外出すると網を四方八方に張り巡らせて祈っている者が居た。
曰く、
天地四方、いずこから来るものも我が網にかかれ、と。
これを聞いた湯は嘆いた。
ああ、すべてを取り尽すそうとは何と過ぎたることか、と。
そして三面を解いて改めて祈りて曰く、
左せんと欲するならば左せよ、右せんと欲するのならば右せよ。
往くところ無きものは我が網へとかかれ、と。
これを聞いた諸侯は感嘆して云った。
湯王の徳は遂に禽獣にまで及ぶに至った、と。
そこで伊尹は湯の宰相となって桀を討伐し、南巣へと追放した。
諸侯が湯王こそ天子に相応しいと推戴したので、湯は天子の位へと就くことになった。
天子となったある日、日照りが七年も続いたので、太史に占わせた。
曰く、
人を犠牲にして祈るしかありません、と。
これを聞いた湯王は云った。
吾は人民のために雨乞いをするのである。
もし、人を以て祈らねばならぬのならば、吾が自ら犠牲となろうではないか、と。
そして心身を清めた湯王は白木の車を白馬に曳かせ、身には白の茅を纏い、自ら桑林の野にて祈り、六事を以て自らを責めて云った。
政治に節度がなかったか、人民が職を失ったのか、宮殿が贅沢すぎたのか、女の請託が盛んなるか、賄賂が盛んであるのか、讒言するような人間が横行しているのか、と。
湯が祈りはじめると、その祈りが終わらぬうちに大雨が降りだし、その恩恵は方数千里にも及んだという。
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語句解説
- 湯王(とうおう)
- 湯王。天乙。成湯。殷王朝の始祖。賢臣伊尹を擁して夏の桀を倒した。後世に聖王として称賛される。
- 嚳(こく)
- 嚳。五帝の一人。伝説上の人物で高辛に都したので高辛氏と称したとされる。黄帝の曾孫で顓頊の跡を継いで帝位に就いた。
- 玄鳥(げんちょう)
- つばめの異名。
- 唐虞(とうぐ)
- 堯・舜またはその時代のこと。
- 司徒(しと)
- 周代の官名。六卿の一つ。教育、民政を司る。後漢以後、隋・唐の三公のひとつ。
- 伊尹(いいん)
- 伊尹。殷の名相で阿衡と称される。湯王を補佐して桀を討伐。殷の礎を築く。
- 桀(けつ)
- 桀。夏の十七代目の王。暴君の代表。殷の湯王によって滅ぼされた。
- 禽獣(きんじゅう)
- 鳥や獣のこと。
- 大旱(たいかん)
- 日照りのこと。
- 太史(たいし)
- 大史。官名で天文官のこと。天文や暦のほか、国家の記録をつかさどる役目も兼ねる。
- 斉戒(さいかい)
- ものいみして心身を清めること。
- 素車(そしゃ)
- 飾りのない白木の車。凶事に用いる。転じて、神に祈るときや死を覚悟したときに用いる。
- 白茆(はくぼう)
- 白茅。草の名で白のちがや。春に白い毛のある小さい花を穂のように多数付けることから、純白なものに例えられることが多い。髪を降ろすかたしろに用いる。
- 女謁(じょえつ)
- 女が寵愛を利用して頼みごとをすること。
- 苞苴(ほうしょ)
- つみ草と敷き草。転じて賄賂のこと。
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