曾先之
十八史略-東漢[孝献皇帝][諸葛亮]
備、士を
徽曰く、
時務を識る者は俊傑に在り。
此の間自ずから伏龍・鳳雛有り。
諸葛孔明、
諸葛孔明は臥龍なり、と。
備、三たび往きて乃ち亮に
亮曰く、
操は百万の衆を
此れ誠に
権は江東を拠有し、国は険にして民は付く。
荊州は武を用ふるの国にて、益州は
若し
備曰く、
善し、と。
亮と
曰く、
孤の孔明有るは、猶ほ魚の水有るがごとし、と。
士元、名は統、龐徳公の
徳公は
亮、其の家に至る毎に、獨り床下に拝す。
現代語訳・抄訳
諸葛亮は琅邪陽都で生まれ、襄陽の隆中で晴耕雨読の生活を送っていたが、常に自らを管仲・楽毅に比して、管仲の如き大経綸と楽毅の如き武略を得んと大志を抱いていた。
ある時、劉備は司馬徽を訪ねてこの地方に人物はいないかを問うた。
司馬徽曰く、
この時局に当って成すべきを識るは俊傑しかない。
この地方において俊傑と呼べるのは伏龍・諸葛孔明と鳳雛・龐士元が第一であろう、と。
諸葛亮の親友であった徐庶もまた劉備に教えて云った。
諸葛亮は臥龍、即ちまだ飛び上がっておらぬ龍の如き人物である、と。
そこで劉備は三顧の礼を尽して諸葛亮と会見し、その策を問うた。
諸葛亮曰く、
曹操は軍卒百万、天子を擁して諸侯に号令している。
これとまともに戦ってはいけない。
孫権は江東を領有し、国は険にして民はよく心服している。
これとは手を取り合うべきで、征服することは不可である。
今、将軍が目を向けるべきはこの荊州と険阻にして国土豊饒たる益州である。
この二州を領有して時宜を伺い、時を得れば荊州からは宛・洛陽に、益州からは秦川に出で、天下に覇を唱えることも可能となる。
その時に当って、箪食壺漿して将軍を迎えぬ人民はおらぬことでありましょう、と。
劉備曰く、
善し、と。
これより諸葛亮は出廬し、劉備はこれを重宝して日に日に親密になっていった。
ある時、劉備は云った。
吾に孔明有るは、魚に水有るが如きものである、と。
もう一方の鳳雛と呼ばれた士元は名を統といい、龐徳公の甥であった。
尚、龐徳公は器量人として名高く、諸葛亮はその家を訪れると、必ず縁先で拝礼する程であったという。
- 出典・参考・引用
- 早稲田大学編輯部編「漢籍国字解全書」(第36-37巻)222/306
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語句解説
- 諸葛亮(しょかつりょう)
- 諸葛亮。三国時代の蜀の丞相。字は孔明。劉備に三顧の礼によって迎えられ天下三分の計を達成するも五丈原に志半ばで病死。清廉にして公正、人々は畏れながらも敬慕し、その統治を懐かしんだという。
- 寓居(ぐうきょ)
- 仮の住まいのこと。
- 管仲(かんちゅう)
- 管仲。春秋時代の宰相。斉の桓公に仕えてその隆盛を担った。桓公は管仲を称えて「一にも仲父、二にも仲父」と言ったという。
- 楽毅(がっき)
- 楽毅。戦国時代の燕の名将。連合軍を組織して斉を討伐。秦と並ぶ最強国であった斉を滅亡寸前にまで追いつめるも、反間の計によって職を解かれて亡命した。
- 劉備(りゅうび)
- 劉備。三国時代の蜀の始祖。字は玄徳。関羽、張飛と義兄弟の契りを結ぶ。漢再興を志し、諸葛亮を得て蜀の地に蜀漢を建国。度量大きく民衆に慕われたとされる。
- 司馬徽(しばき)
- 司馬徽。後漢末期の人。水鏡先生と呼ばれる。人物鑑定家として有名。「好し好し」が口癖であったという。
- 龐統(ほうとう)
- 龐統。後漢末期の人。字は士元。鳳雛と称せらる。経学と策謀に優れ、劉備の参謀として活躍したが夭折した。
- 徐庶(じょしょ)
- 徐庶。三国時代の魏の武将。初め劉備に仕え、親友であった諸葛亮を推薦。のち、母が魏に居ることから曹操に仕えた。
- 曹操(そうそう)
- 曹操。三国時代の魏の始祖。治世の能臣、乱世の姦雄と称せらる。政治、兵法に優れると共に詩文にも才を発揮。献帝を擁して天下に覇を唱えた。
- 孫権(そんけん)
- 孫権。三国時代の呉の君主。江東に君臨して曹操と対峙。政治的能力に優れる。着実に版図を広げるも、その死と共に呉は衰退の一歩を辿った。
- 沃野(よくや)
- 肥えていて作物のよく実る広々とした土地のこと。
- 天府(てんぷ)
- ゆたかな地。天然の要害をなす土地。
- 跨有(こゆう)
- ふたつにまたがって両方とも自分のものにすること。
- 情好(じょうこう)
- 親密なこと。仲のよいこと。
- 孤(こ)
- ひとりぼっちである様。みなしご。また、王侯などの謙称にも用いられる。
- 従子(じゅうし)
- 甥。姪。兄弟姉妹の子。
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