曾先之
十八史略-東漢[孝献皇帝][呂蒙]
劉備、荊州江南の諸郡を
周瑜、権に
備は
宜しく備を徒して呉に置くべし、と。
権従はず、瑜、
魯粛、代つて其の兵を領す。
粛、権に勧めて荊州を以て劉備に借さしむ。
権、之に従ふ。
権の将、呂蒙初め学ばず。
権、蒙に勧めて書を読ましむ。
魯粛、後に蒙と論議す。
大いに驚きて曰く、
卿は復た呉下の阿蒙に非ず、と。
蒙曰く、
士別れて三日ならば、即ち当に刮目して相待つべし、と。
現代語訳・抄訳
劉備が荊州江南の諸郡を攻略した。
周瑜が孫権に上疏して云った。
劉備は生来の英雄であり、その配下には関羽、張飛といった猛将が居ります。
この三人が揃って国境に在るは、蛟龍に雲雨を得させるようなものです。
一たび雲雨を得たらば
早々に劉備を呉に呼び寄せるべきでしょう、と。
だが、孫権は従わなかった。
周瑜は魏の疲弊をみて北方中原を図らんと企てたが、病を得て急逝した。
その後を魯粛が継いだ。
魯粛は孫権に勧めて荊州を一時的に劉備に借すように進言した。
孫権はこれに従った。
呂蒙は武略は好むが学問をしなかった。
孫権はこれを憂え、しばしば呂蒙に学問するように勧めていた。
やがて、呂蒙に何か感ずるところがあったのか、一躍発奮して書を読み学問を修めることを志すようになった。
後に、しばらくぶりに呂蒙に会った魯粛は、その変化に驚いて云った。
お前さんは昔の呂蒙ではないな、と。
これに呂蒙が応じて云った。
いやしくも人物足ることを本気で志せば、人はほんの数日で如何ようにも変わり得るのです。
士たる者、別れて三日も会わざれば、刮目して相待たねばなりません、と。
- 出典・参考・引用
- 早稲田大学編輯部編「漢籍国字解全書」(第36-37巻)224/306
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語句解説
- 劉備(りゅうび)
- 劉備。三国時代の蜀の始祖。字は玄徳。関羽、張飛と義兄弟の契りを結ぶ。漢再興を志し、諸葛亮を得て蜀の地に蜀漢を建国。度量大きく民衆に慕われたとされる。
- 周瑜(しゅうゆ)
- 周瑜。三国時代の呉の将。孫策、孫権に重用され赤壁の戦いでは曹操率いる魏の大軍を撃破。眉目麗しく人々は美周郎と嘆称したという。
- 孫権(そんけん)
- 孫権。三国時代の呉の君主。江東に君臨して曹操と対峙。政治的能力に優れる。着実に版図を広げるも、その死と共に呉は衰退の一歩を辿った。
- 梟雄(きょうゆう)
- 驍勇。強く荒々しい英雄。また、残忍で強いこと。
- 関羽(かんう)
- 関羽。三国時代の蜀の名将。劉備、張飛と義兄弟の契りを結ぶ。義理に厚く武神と称される。その威徳を慕い各地で関帝廟が建立された。
- 張飛(ちょうひ)
- 張飛。三国時代の蜀の武将。劉備、関羽と義兄弟の契りを結ぶ。武勇に優れ「一万の兵に匹敵する」とまで称された。
- 疆埸(きょうえき)
- あぜ。国境。埸は場に似ているが異なる文字。
- 魯粛(ろしゅく)
- 魯粛。三国時代の呉の将。周瑜と共に赤壁に開戦を主張して魏を撃破。周瑜亡き後には呉の柱石として見事な政治・外交手腕を発揮した。
- 呂蒙(りょもう)
- 呂蒙。三国時代の呉の将。武略に優れるも初め学ばず、発奮して学を修めるや魯粛をして「呉下の阿蒙に非ず」と感嘆させた。魯粛卒して後に呉の柱石として活躍。
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