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司馬遷

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史記-本紀[秦本紀][29-30]

三十二年の冬、晋の文公卒す。
鄭人ていじんの秦に於いて鄭を売る有りて曰く、
我は其の城門をつかさどれり、鄭を襲う可きなり、と。
穆公ぼくこう蹇叔けんしゅく百里奚ひゃくりけいに問ひ、對へて曰く、
数国を経て千里に人を襲う、利を得る有るはまれなり。
且つ人の鄭を売る、んぞ我が国人の我が情を以て鄭につぐる有らざるを知らん。
不可なり、と。
穆公曰く、
子は知らざるなり、吾はすでに決せり、と。
遂に兵を発し、百里奚の子の孟明視、蹇叔の子の西乞術及び白乙丙をして兵をひきひさしむ。
行くの日、百里奚、蹇叔の二人は之をこくす。
穆公聞き、怒りて曰く、
が兵を発するに子の吾が軍をして哭するは何ぞや、と。
二老曰く、
臣は敢えて君の軍を沮するに非ず。
軍行き、臣の子往くによれり。
臣は老なり、遅く還らば相見えず、故に哭するのみ、と。
二老退しりぞき、其の子に謂ひて曰く、
汝の軍の即ち敗るれば、必ずこうやくせん。
三十三年の春、秦の兵遂に東し、晋の地を更して周の北門を過ぐ。
周の王孫満曰く、
秦の師に禮無し、敗れずに何をか待たん、と。
兵のこつに至り、鄭の販売買人の弦高、十二の牛を持して将に之を周に売らんとす。
秦の兵に見え、死虜とせられるを恐れ、因りて其の牛を献じて曰く、
大国の将に鄭を誅せんとするを聞くに、鄭君は謹みて守禦しゅぎょの備えを修め、臣をして牛十二を以て軍士を労せしむ、と。
秦の三将軍相謂ひて曰く、
将に鄭を襲はんとするに、鄭今すでに之を覚る。
往くも及ぶ無きのみ、と。
滑を滅す。
滑は晋の辺邑なり。
是の時に当り、晋の文公の喪尚ほ今だ葬らず。
太子襄公怒りて曰く、
秦、我が孤なるを侮り、喪に因り我が滑を破れり、と。
遂に衰絰さいてつを墨し、兵を発して秦兵を殽にて遮り、之を撃ち、大いに秦軍を破り、一人の脱する者を得る無し。
秦の三将を虜し以て帰す。
文公の夫人、秦の女なりて、秦の三囚将の為に謂ひて曰く、
穆公の此の三人を怨むるは骨髄に入る、願はくば此の三人を帰せしめて、我が君に自ら快く之を烹るを得さしめよ、と。
晋君、之を許し、秦の三将を帰す。
三将至り、穆公、素服そふくにて郊迎こうげいし、三人にむかひ哭して曰く、
孤は百里奚、蹇叔の言を用いずして以て三子を辱めたり、三子に何の罪かあらんや。
子、其の心をつくし恥をそそぐこと、怠るなかれ、と。
遂に三人の官秩かんぶちを復するに故の如く、愈益いよいよますます、之を厚くす。

現代語訳・抄訳

穆公の三十二年冬、晋の文公が亡くなった。
鄭人で秦において鄭を売る者が居て云った。
私は鄭の城門の情報を知っています。
これを用いて今こそ鄭を襲うべきです、と。
これを聞いた穆公がその是非を蹇叔と百里奚に問うと、答えて曰く、
数ヶ国を経て遥か遠い地を襲うのはまず成功しますまい。
また、鄭人に自国を売る者が居るならば、我が国にも同じように情報を鄭に告げるものが居るでしょう。
やめたほうがよろしい、と。
穆公曰く、
お前達が何と言おうと、私は既に決めたのだ、と。
そうして兵を鄭に向けて発し、百里奚の子の孟明視と蹇叔の子の西乞術と白乙丙を将軍として派遣した。
出陣の日になって、百里奚、蹇叔の二人が哭していた。
これを知った穆公が怒って云った。
私が兵を進めると決めたのに、どうしてお前達はそれを阻んで哭するのか、と。
二人は答えた。
私達は君の軍を阻むが故に哭しているのではありません。
この度の出陣には我が子等が往きます。
既に老いた身でありますから、還りが遅くなればもう会えぬのかと思うて哭しているのです、と。
退出した二人は其の子に云った。
お前達の軍が敗れるとすれば、きっと晋の殽であろう、と。
三十三年の春、秦の兵は遂に周へと到着し、周の北門を過ぎた。
その様子を見ていた周の王孫満が嘆息して云った。
秦の軍には礼儀というものがない。
必ずや敗れるであろう、と。
秦軍が晋の滑に至った時、ちょうど鄭の商人である弦高が周に十二頭の牛を売ろうとして向かっていた。
秦の兵に気付いた弦高は、囚われ殺されることを恐れて持っていた牛を献上して云った。
大国の秦が鄭を誅せんとしていることを聞いて、鄭の君は謹んでその守りを固め、そして牛十二頭を献上して進軍の労をねぎらわせんと私を使わした次第です、と。
これを聞いた秦の三将軍は相談して云った。
我等は鄭を襲わんとしているのにも関わらず、鄭は既にそれを覚った上で、我等のに牛を献上した。
恐らくその備えは万全であり、鄭に向かっても得るものはなかろう、と。
そして秦の辺境の邑である滑を滅ぼして帰途に就いた。
この時、晋では文公の喪がまだ終っていなかった。
秦が滑を侵したという報を聞いた襄公が怒って云った。
秦は文公が亡くなって我などは畏るに足らないと侮っている。
喪に服している間に滑を侵すとは何たることだ、と。
そして白い喪服を黒に染めてすぐさま出陣し、兵を秦軍へと向かわせて殽の地にて大いに破り、秦の三将軍を虜とした。
当時、文公の夫人は穆公の娘であった。
虜となった秦の三将軍を助けようと思案してこう云った。
穆公の三人への怨みは骨髄に入る程のものです。
ですから、この三人を秦へと帰し、穆公がその怨みを晴らせるようにさせてやる方がよいでしょう、と。
襄公はこれを許して秦の三将軍を帰した。
三将軍が戻ってくると、穆公は白絹の着物で丁重に出迎え、三人に向かって哭きながら云った。
私は百里奚、蹇叔の諫めも聞かずに鄭を攻め、それによって三人に辱めを与えてしまった。
お前達に何の罪があるだろうか。
この恥を雪ぐために心血を注いでほしい、と。
そして三人を以前のままの官秩とし、その後も大いに厚遇したという。

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語句解説

穆公(ぼくこう)
穆公。春秋時代の秦の君主。広く賢臣を任用して国を治めたので秦は飛躍的な発展拡大を遂げた。
百里奚(ひゃくりけい)
百里奚。春秋時代の政治家。楚において奴隷に身をやつしているところを秦の穆公に羊の皮五枚で買い戻され宰相となった。徳を以て国を治めたので周辺諸国がこぞって服属したという。
孤(こ)
ひとりぼっちである様。みなしご。また、王侯などの謙称にも用いられる。
沮(そ)
さえぎって止める、じゃまされてくじける。
守禦(しゅぎょ)
城やとりでなどを守って敵の攻撃を防ぐ。防御。
衰絰(さいてつ)
喪の服装。この頃の喪服は白であり、白は凶事に着るもので勝ちを望む戦争にはそぐわないから黒に染めたといわれる。尚、これが喪服の黒になった所以ともされる。
素服(そふく)
白絹の着物。凶事に用いる。
郊迎(こうげい)
町はずれまで出向いて迎えること。
嚮(きょう)
むかう。左右に対座する。向かい合う様。
官秩(かんぶち)
官位。官禄。
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