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王陽明

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伝習録-伝習録下[204]

又問ふ、
静坐の功を用うる、すこぶる此の心の収斂しゅうれんするを覚ゆ。
事に遇へば又た断ちてりょうし、かへつての念頭を起こし、事上に省察し去る。
事が過ぐれば又旧功を尋ね、還りて内外を打して一片とらざる有るを覚ゆ、と。
先生曰く、
此れ格物の説、未だとほらず、心何ぞ嘗て内外有らん。
即ち惟濬いえいの今ここに在りて講論するが如く、又たに一心の内に在りて照管しょうかんする有らんや。
の講説を聴く時専ら敬す、即ち是れの静坐の時の心、功夫一貫す。
何ぞ更に念頭を起こすをもちいん。
人須らく事上に在りて摩練し、功夫をすべし。
乃ち益あり。
若し只だ静を好まば、事に遇ひては便ち乱れ、終に長進なく、静時の功夫も亦たたがはん。
収斂しゅうれんに似て実は放溺ほうできなり、と。

現代語訳・抄訳

王陽明の門人である陳九川が尋ねた。
静座をして自己を徹見しておりますと心が収斂するのを覚えます。
しかし、何か物事に遇うとその収斂したと思っていた心が再び散逸し、その物事にばかり注意が向いてしまいます。
その事が去れば再び静座の工夫をしてみるのですが、どうしても内外が一になることを実感するまでに至りません、と。
王陽明が答えて云った。
それは格物致知の未だ至らざるが故であって、本来は心に内外の別などはないのである。
お前が自ら述べておる通りで、どうして一心であるものが事々について別の心を致せようか。
先ほどの座禅における工夫は敬するに足るもので、ただそれのみを心掛ければよい。
他に何かする必要などはない。
誰しもがすべきことは日常の中にあって、その座禅における工夫の如きを実践するという事だけなのである。
さすれば必ずや達するところがあろう。
然るに只だ静であること自体を求めるようでは、真の静の境地に達することは出来ぬ。
特別な状況でのみに得た静などは、実際の場では何の役にも立たぬものである。
それは収斂に似てはいるが、実は心を放溺しているのである、と。

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語句解説

収斂(しゅうれん)
引き締まること。取り集め収めること。
陳九川(ちんきゅうせん)
陳九川。明代の人。字は惟濬。王陽明の弟子で伝習録の中に度々登場する。
照管(しょうかん)
世話を頼む。注意する。
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