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司馬遷

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史記-本紀[項羽本紀][3]

秦の二世元年七月、陳渉等大澤だいたくの中に起つ。
其の九月、会稽の守・通、梁に謂ひて曰く、
江西は皆な反たり、此れ天の秦を亡すの時なり。
吾れ聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制せらるる所と為ると。
吾、兵を発し公及び桓楚に将たらしめんと欲す、と。
是の時に桓楚はげて澤中たくちゅうに在り。
梁曰く、
桓楚は亡げて人其の処を知るし、獨りが之を知るのみ、と。
梁及ち出でて籍にげ、けんし外に居して待たしむ。
梁復た入り、守とともに坐して曰く、
請ふ、籍を召し、命を受けて桓楚をまねかはしめん、と。
守曰く、
諾、と。
梁、籍を召し入る。
須臾しゅゆ、梁、しゅんして籍に曰く、
行ふべし、と。
是に於いて籍、遂にけんを抜いて守の頭を斬る。
項梁、守の頭を持し、其の印綬いんじゅぶ。
門下大いに驚きて擾乱じょうらんし、籍の撃殺する所数十百人、一府中皆な慴伏しょうふくし、あへて起つし。
梁乃ちもと知る所の豪吏ごうりを召し、諭すに大事を起すを為す所を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。
人をして下縣かけんを収めしめ、精兵八千人を得。
梁、呉中の豪傑を部署し校尉、候、司馬と為す。
一人有り、用ひらるを得ず、自ら梁に言ふ。
梁曰く、
前時ぜんじぼうの喪に公をして某の事をつかさどらしむ、べんずる能はず、此れを以て公を任用せず、と。
衆乃ち皆な伏す。
是に於いて梁は會稽かいけいの守と為り、籍は裨将ひしょうと為り、下縣をとなふ。

現代語訳・抄訳

秦の始皇帝が亡くなって二世皇帝が即位した年の七月、大澤において陳渉・呉広の乱が勃発した。
これを契機に民の不満が爆発し、各地で民が蜂起して容易ならぬ形勢となった。
その年の九月、会稽の太守であった殷通が項梁を呼んで云った。
江西の地においては皆反旗を翻した。
此れは将に天の秦を滅ぼさんとするものであろう。
吾はこのように聞いている「先んずれば人を制し、後るれば人に制せられる所となる」と。
吾もお前と桓楚とを将として蜂起しようかと思うがどうだろうか、と。
この時、桓楚は大澤に逃亡していた。
項梁が云った。
桓楚は逃亡してどこに行ったかわかりません。
ただ一人、甥の項羽が知ってるようなので呼んでみましょう、と。
項梁は席を起って項羽のもとへ行き、項羽に何事か含んで剣を持たせ、入り口の外に待たせた。
項梁は再び戻ってくると、殷通と対座して云った。
宜しければ項羽を召して、桓楚を連れて来るように命じたいと思います、と。
殷通は答えて云った。
よかろう、と。
項梁は早速、項羽を召した。
項羽が中に入ってしばらくすると、項梁は目配せをして項羽に叫んだ。
殺れ、と
項羽は剣を抜くと一閃のもとに殷通の首を落した。
項梁は殷通の頭と太守の印綬を奪って掲げた。
門下の人々は驚いて騒いだが、項羽が瞬く間にこれを撃ち殺すと、遂に懼れ伏して誰一人として逆らうことが出来なかった。
項梁は旧知の官吏を呼び、事の次第を告げて諭し、呉中の兵を手中にした。
更に人を遣って会稽に属する諸県を掌握させ、精兵八千人を得た。
項梁は呉中の豪傑を選別し、校尉、候、司馬に任命した。
この時、任命から漏れた者が居り、項梁に異議を申し立てた。
項梁は云った。
以前、ある者の喪に際して、あなたに主宰させたがうまく捌くことが出来なかった。
故にあなたを任用しないのだよ、と。
これを伝え聞いて皆が敬服した。
ここにおいて項梁は会稽の太守に、項羽はその副将となり、会稽以下その属県の人民を統治下に収めた。

出典・参考・引用
司馬遷著・塚本哲三編「史記」第一164-165/297
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語句解説

項羽(こうう)
項羽。秦末の武人。向かうところ連戦連勝、わずか三年にして覇王を称すも劉邦との一戦に敗れて滅亡。四面楚歌の故事は有名。
須臾(しゅゆ)
しばらく、ほんのわずかの時間。
眴(しゅん)
目くばせをすること。
擾乱(じょうらん)
乱れ騒ぐこと。
慴伏(しょうふく)
ひれ伏すこと。勢いにおそれて屈服すること。
豪吏(ごうり)
有力な役人。勢力のある官吏。
裨将(ひしょう)
副将。補佐官。大将をたすける将官。
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