列子
列子-力命[3.2]
然れども実に善交なく、実に能を用うるなきなり。
実に善交なく、実に能を用うるなきなるは、更に善交あり、更に善く能を用うるあるに非ざるなり。
召忽は能く死するに非ず、死せざるを得ず。
鮑叔は能く賢を挙ぐるに非ず、挙げざるを得ず。
小白は能く仇を用うるに非ず、用いらざるを得ず。
管夷吾の病あるに及びて、小白之に問ひて曰く、
仲父の病は
大病に至りては、則ち
夷吾曰く、
公は誰を欲するや、と。
小白曰く、
鮑叔牙は可なるか、と。
曰く、
不可なり。
其の人と為りや潔廉の善士なり。
其の己に若かざる者に於いては之を人に比せず、一たび人の過を聞かば終身忘れず。
之をして国を
小白曰く、
然らば孰か可ならん、と。
対へて曰く、
已むなくんば、則ち
其の人と為りや上を忘れて下に叛かず、其の黄帝に若かざるを愧じて、己に若かざる者を哀れむ。
徳を以て人に分かつ、之を聖人と謂ひ、財を以て人に分かつ、之を賢人と謂ふ。
賢を以て人に臨む、未だ人を得る者あらざるなり。
賢を以て人に下る者、未だ人を得ざる者あらざるなり。
其の国に於けるや聞かざる有るなり、其の家に於けるや見ざる有るなり、
已むなくんば、則ち隰朋は可なり、と。
然らば則ち管夷吾は鮑叔に薄きに非ず、薄からざるを得ざるなり。
隰朋に厚きに非ず、厚からざるを得ざるなり。
之を始に厚うすれば、或は之を終に薄うす。
之を終に薄うすれば、或は之を始に厚うす。
厚薄の去来、我に由らざるなり。
現代語訳・抄訳
しかしよくよく考えてみれば、これは自然に定まったことのようなもので、善く交際したものでもなければ、善く用いたというわけでもない。
かといってこれ以上に善く交際するものがいるというわけでも、善く用いるということがあるというわけでもない。
召忽は死ぬべくして死に、鮑叔は挙げるべくして挙げ、桓公は用いるべくして用いただけのことである。
管仲が病となって危篤になった時、桓公は管仲に問うて曰く、
仲父の病は大病であり、忌むべきことではあるが聞かざるを得ない。
もし、仲父に万一の時には我は誰に国政を預けるべきであろうか、と。
管仲曰く、
君においては誰に任せたいと思っておられますか、と。
桓公曰く、
鮑叔が相応しいのではないだろうか、と。
管仲曰く、
それはいけません。
鮑叔は確かに清廉潔白で素晴らしい人物ではあります。
しかし、彼は自らに若かざる者を容れませぬし、一たび人の過ちを聞けば一生忘れません。
もしも国政を任せれば、君は息つく暇もなく、人情に沿わぬ部分が多すぎて民に逆い、いつしか君にその禍が及んでしまうでしょう、と。
桓公曰く、
それでは誰が良いだろうか、と。
管仲曰く、
どうしてもというならば隰朋でしょうか。
隰朋は上に事えれば無心であり、下にも隔てがありません。
自らに対しては黄帝に及ばぬことを恥としますが、人に対しては自らに及ばぬ者でも哀れみます。
大体において、徳を人に分かち与えて、人を導く者を聖人と謂い、財を人に分かち与えて、人の窮を救う者を賢人と謂います。
己の賢を以て人に対する者に人は親しみませんが、己が賢であるにも関わらず自ら謙遜して人と接する者には人は惹かれるものです。
隰朋は賢でありますが、聞いても聞かぬ、見ても見ぬということができる者です。
ですから、どうしてもというならば隰朋に任せるのが宜しいでしょう、と。
この説話を見れば、管仲は鮑叔に対して薄いのではなく、薄くならざるを得ないのである。
同様に隰朋に対して厚いのではなく、厚くならざるを得ないのである。
たとえ始に厚くても、終には薄くせねばならぬ場合もあるし、終が薄くても始は厚くする場合もある。
したがって厚薄の去来というものは、全て自然に帰着するものなのである。
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語句解説
- 寡人(かじん)
- 王侯やその夫人が自分を謙遜していう言葉。
- 鉤(こう)
- かぎ、かけどめ。束縛すること。
- 黄帝(こうてい)
- 黄帝。軒轅(けんえん)。伝説上の帝王で理想の君主として尊ばれる。文学、農業、医学などの諸文化を創造したとされる。
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