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范曄

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後漢書-列傳[耿弇列傳][12]

後数日、車駕しゃが臨淄りんしに至り、自ら軍を労す。
群臣大会す。
えんに謂ひて曰く、
昔、韓信は歴下に破り以て基を開き、今、将軍は祝阿を攻め以て迹を発す。
此れ皆な斉に西界し、功は相方くらべるに足る。
而して韓信は撃するにすでに降するを襲ひ、将軍は獨り勍敵けいてきを抜く、其の功すなはち信より難なり。
又、田横の酈生れきせいるも、田横降るに及び、高帝、衛尉を詔りて仇を為すを聴かず。
張歩も前に亦た伏隆を殺す、若し歩み来たりて帰命せば、吾は大司徒に詔じて当に其の怨を釈さん、又た事もっとも相類するなり。
将軍前に南陽に在りて、此の大策を建つも、常に以為おもへらく落落として合ひ難しと。
志有る者は事つひに成るなり、と。
弇、因りて復た歩を追ひ、歩は平寿に奔り、乃ち肉袒にくたんして斧鍖ふちんを於いて軍門に負ふ。
弇、歩を伝ひて行在所に詣り、而して兵をろくして其の城に拠す。
十二郡の旗鼓をて、歩が兵をして各郡人を以て旗下に詣らしめ、衆は尚ほ十余萬、輜重は七千余両、皆な罷遣はいけんして郷里に帰せしむ。
弇、復た兵を引いて城陽に至り、五校の余党を降し、斉の地をことごとく平らげ、振旅しんりょして京師に還る。

現代語訳・抄訳

臨淄に到着し、軍を慰労した光武帝・劉秀は、群臣と一堂に会し、耿弇の活躍に慨嘆して云った。
昔、韓信は歴下を破ってその端を発し、今、将軍は祝阿を攻めてその事跡を追った。
これはどちらも斉を平定するもので、功は比べるに足るであろう。
それにしても、韓信は既に降伏しようとしていた斉に侵攻したのであるが、将軍は固く守っている敵を破って平定したのであって、これを成すのは韓信より難しいものである。
また、田横は酈生を煮殺したが、田横が降伏してきた際には、高祖は仇討ちさせぬように衛尉に命じて田横の命を救った。
張歩も以前に伏隆を殺したが、もしも、我が陣営に帰順してくるのであれば、吾もまた大司徒に命じてその怨みを許すつもりである。
これもまた、かつてと同じことである。
将軍が南陽に居た頃、斉平定の大策を進言したことがあったが、吾はあまりにも雄大すぎて無謀であると思っていた。
だが、志を固く信じて事を行って行けば何事でも成就するものなのであるな、と。
耿弇は更に張歩を追った。
張歩は平寿まで奔走したが、やがて覚悟を決めて軍門に下った。
耿弇は張歩を捕らえて光武帝の元に送ると、兵を治めて平寿の城を占拠した。
そして十二の郡の旗鼓を立てて張歩の残兵をそれぞれの故郷の郡の旗下に集わせ、その集った十余万もの張歩の兵と、輜重は七千余両を、すべて解散させて郷里へと帰らせた。
その後、耿弇は兵を率いて城陽に至り、祝阿の残党を降し、遂に斉の地を悉く平らげ、兵を整えて都へと帰還した。

出典・参考・引用
長澤規矩他「和刻本正史後漢書」(二)p550
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語句解説

車駕(しゃが)
天子の乗物。天子が車で出かけること。転じて天子の敬称としても用いる。
劉秀(りゅうしゅう)
劉秀。後漢の始祖。光武帝。文武両道、民衆に親しまれ、その治世は古の三代にも匹敵したとされる。名君の代表として有名。
耿弇(こうえん)
耿弇。後漢創業の功臣。用兵に優れ向かうところ敵無し。斉平定を成し遂げ「志有らば事はついに成るものだ」と感嘆せしめた。
韓信(かんしん)
韓信。前漢の武将で劉邦の覇業に貢献。漢の三傑。大将軍。項羽亡き後、楚の王となるも粛清された。大志を抱き、些細な恥辱にはこだわらなかった様を伝える「韓信の股くぐり」は有名。
勍敵(けいてき)
強敵。「勍」はつよい、かっちりとしてたるみないさまで強と同義。
酈食其(れきいき)
酈食其。酈生。漢の劉邦に仕え、弁舌でもって斉を説き伏せたが韓信の侵攻によって煮殺された。
大司徒(だいしと)
教育のことを司る。また、漢代に丞相と改称し、国政を司った。
肉袒(にくたん)
上半身を肌脱ぎして服従・降服・謝罪などの意思表示として行う。
斧鍖(ふちん)
註に由れば必死を示すとのこと。
罷遣(はいけん)
しごとをやめて帰らせること。
振旅(しんりょ)
兵を整えて還ること。
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