安岡正篤を座右の書に
日本の伝統精神
出版社: PHP研究所 (2003/02)
本書は講話集である。
人造り、国造りをメインとして日本の明治維新より世界大戦後における世界情勢、そして日本人の意識の変化に話が及ぶ。
正に警世の書というに相応しい一冊である。
世に教育の問題、人造りが叫ばれて久しい。
だが、多くは叫ぶだけで根本が存在せず、教育は道徳だと叫んでいても、その叫んでいる本人自体に魅力を感じぬ場合が多い。
そのような中で本書に示されるその歩むべき道は、人を造り、国を造るに必然たるものであろう。
東京都の都市問題に関して、あるアメリカの理工学の大家は次のように語ったという。
まず都民に東京の歴史をしっかり教えることである。
そしてその歴史を通じて都をわが家の如く愛するという精神を都民にもたせることである。
どうも東京へ来て見受けるところ都民が都を愛しているように思えぬ。
都がどうして昔からここまで来たか、ということを知っておるように思えぬ。
都の歴史を知らず、都を愛する事を知らないで、どうして都をよくすることが出来るであろうか、と。
人にはやはり愛というものがある。
親を愛するが如く、同郷の者を親しむが如く、やはり母国に対しても愛がある。
日本人ほど自国を知らず、自国を卑下する国民も珍しいことは確かだが、それでもやはり自国に対する愛は存するであろう。
だが、過去と比べて余りにもその自覚が乏しいといわざるを得ない。
それはなぜだろうかと問われれば、どうしても教育の問題に帰結する。
如何に文明が発達しようとも、絶対的に変わらぬのは人である。
文明が発達したが如く、人が如何にその精神を発展化育させてゆくか、ここに真実の意味における国の発展は存するのである。
安岡正篤氏はその人造りの在り方を次のように述べる。
先ず人造りということについて一番大事なことは、人間が物質や器械を操縦するように他人を取扱う、ということではなくて、自分自身を造るということであります。
これを忘れて如何に人造りを論じても、それは単なる空論に過ぎない。
政治家が人造りを言う場合には、先ずその政治家が、自分を立派な政治家に造り上げなければならない。
自分を棚に上げて人造りを言ったところで、決して人は共鳴しないし、むしろ反感を持つでありましょう。
教育家でもその通りであります、と。
古来より謂われていることは、己を捨てて人を教えるは逆である、ということである。
いくら良い言葉を発しようとも、実際の自分を振り返ってみて何の精神的な向上が見られなければ、人を感じさせることはないであろう。
共感ほど人を変遷させてゆくものはないが、その共感を与える術は簡単でいて難しい。
安岡正篤氏は国造り・人造りについて、管子にある「四維」に言及して次のように記している。
一つは礼というもの、今日の言葉で言えば、正しい秩序・美しい調和であります。
我々の肉体でも、いろいろの諸器官がそれぞれ秩序を保ち調和して、はじめてそこに健康というものがあり、肉体というものが存在することが出来る。
同様に国家も、政府、その他いろいろのこれを構成する機関・機構が正しい秩序と調和を保って、その機能が円滑に遂行されなければならない。
これが礼というもので、この礼を営むものが先程申しましたような意義・使命をそれぞれ果たしてゆく義であります。
これを無視して、利己的に放縦に活動するのが不義というもので、利と義はここで違って来るのであります。
そこで利というものは、これは利己、私であるが、礼や義というものは、常に全体を予想するわけで、これは公であります。
これを遂行してゆく場合に人間は必ず廉、無私になる。
従ってそういう精神に立てば、利己的な公に背くような精神・活動に対してよく恥ずる、いわゆる恥を知るのであります。
国家を維持する為には、この礼・義・廉・恥の四つの徳がどうしてもなければならん。
これを国の四維と申します。
国造りに一番大事なことは、この礼・義・廉・恥といった公共精神を、これを先ず政府や与党、政党、官公衛・公共団体に実践させることであります、と。
そして、このような精神原則を明らかにせずになんとなく多額の予算をとって、色々と具体的政策を打ち立てたとしても、それは予算の乱費になるだけであり、単なる観念の遊戯になってしまうと云い、国造り・人造りの本質的問題は、結局こういう精神的原理・原則を明確に打ち立て、そこから誤りなき具体策を実践してゆく外に道はない、と述べている。
何事であれ、己を正しくして人を化す、これが順なのである。
例え国であろうとも人と人の関係であることは何ら変わりはない。
至誠あらざる人々が、盛んに道徳、精神を叫ぼうとも国民がついてくるわけがないのである。
国民がついてこない、この時にあたって如何にするべきか。
ここで救いとなるのが、古来より受け継がれてきた日本人としての精神である。
偉大なる先人達の魂である。
上辺のみを飾る現代のエリート連中には心動かされずとも、偉大なる先人達の敬虔な姿、自己に徹し、自己の理想へと心を馳せ、私欲を微塵も感じさせない、そのような人々の在り方に触れたとき、人はどうしても共感せざるを得ない。
これは歴史を学ぶ意義の一である。
本書においても明治の先覚者の精神性にその光を当ててこう語っている。
明治の先覚者には、なるほど西洋の物質文明・機械文明というものは偉いものだ。しかし精神・道徳・信仰に到っては断じて彼等に譲るものではない。我々はあくまでも民族の歴史的伝統的精神・道徳の上に立って、西洋の知識・技術を取り入れれば良いのだ、とこういう自覚も態度も抱負もありました。
それが大正になるとすっかりゆるんで、妙な欧化主義、つまり欧米崇拝といったようなものが少し病的になって参りました。
そしてそれに対する反動で、昭和になりますと、ヒステリックな、或いはエキセントリックな国粋思想・愛国思想というようなものが強調され、それがご承知のように、民族の予想、或いは民族の信念に反した大敗北となって、今度は戦後です。
これはもう全くひどい病的心理になって、又々発生して参りました。
それが今日も尚はたらいておるのであります。
これを反省しなければなりませぬ、と。
認めるべきは認めつつも妄従することなき心意気が明治の先覚者には存在していた。
今の日本にそのような見識を秘める人物が果たしてどれ程いるであろうか。
今の日本には、自己すら愛せぬ人々で溢れている。
愛国に偏ったと思ったら、今度は国どころか自分すらも忘却して何の感涙もなく生きている。
そのような今に生きる我々が何よりもすべきことは、脈々と受け継がれてきた日本という国の本質を見定め、その精神の偉大さを自覚し、自らの成長の糧にすること、これしかないのである。
日本人たるはやはり、その日本という伝統、そしてその精神に通じるべきなのである。
そうであってこそ、初めて真の日本人たるのである。
安岡正篤氏は云う。
特殊性を持って初めて他の特殊性にも通ずる。
これが一般性であります。
例えば本当の日本人ならば本当のイギリス人と必ず共鳴する。
本当のアメリカ人が本当の日本人を見たら、本当に共鳴するのです。
日本人だか、シナ人だか、タイ人だか、何だかわけがわからぬ国籍不明の日本人などを外国人が見たら実に不愉快に感じる。
これは厳粛な事実であります。
人間というものはすべてそうでありまして、男らしい男なら必ず女らしい女が分かるのであって、男だか女だか分からぬというような男や女では、これは役に立たぬ、本当の人間にならぬのであります、と。
日本人が概して世界において重きをなさないのは、この日本人たる特殊性を存しないことが大きいのである。
英語が苦手だとか、演説が下手だとかいうことは大した問題ではない。
日本人でありながら、妄りに他に追従するだけの自分という確固たる存在を持たぬことが問題なのである。
この自分という確固たる存在は、日本人であるならば、どうしても日本の伝統精神ということに根付く。
それなのに日本人はそれを自覚して自らのものにしようとする者が余りに少ない。
我々日本人は日本人たることは決して変わらないものであるにも関わらず、それを意識もせずに生きる、更には否定して生きる。
そんなことでは、人として余りにも寂しいと言わざるを得ない。
本当は、過去というものは偉大なのである。
全体を見ずに一部分だけを抜き出して是非を論ずることが多いが、全体の弛まなき流れを鑑みれば、そこには常に変わることなき大いなる意志が存在する。
過去において人々はより敬虔であり、人生により真剣であった。
レジャーやバカンスなどより、自らを見出すことに力を注いだ人がたくさん居たし、礼義廉恥といった公共精神を抱き、感激をもって事に当たっていた。
だから外国の人々は日本人の礼儀正さに感服したし、フランシスコ・ザビエルのように、その精神の崇高さに感嘆した人もいた。
それが今は不和の社会である。
自分に溺れ、他人に対する自己ばかりで、他をなんら省みない。
安岡正篤氏は聖徳太子の事績を記しながら、これを次のように語っている。
我々は自であると共に分であり、自己であると共に全体のことを考えねばならない。
これが私というものであります。
そうしてこの各々の自己が、利己主義・自己主義に走らないで、他に対して、全体に対して、立派に分を守る、これが礼であります。
即ち私というものに対して他人様、世間、お国というものを考える。
今日はなにかというと封建的封建的と申しますが、昔の人はそういう礼はよく弁えておった。
他人様が、或いは世間が、お国がといって、時によっては、自己の問題より以上に気をつかったものであります。
人間は、自己本位に走ると、忽ちこれは十七条憲法にもおっしゃっておるように、先ず喧嘩・争いになる。
そうではなくて、自己と同時に他人を考える。
更にもっと大きな全体、世間というもの、国家というものを考えて善処してゆく。
それによってはじめて人間に平和というもの、文化というものがあるのであります。
要するに、自分という言葉の含む精神を、みんなが体現すればよいのであります。
それを太子が、礼を以てせよ、という言葉で力説されておるわけであります。
処が今日は、どうも和だとか、礼だとかいうものが無視されて、直ぐ自己的放縦に走る。
そのために惨憺たる不和の社会、闘争の社会を実現しておる、と。
ただ自分という言葉の含む精神を体現するだけでよい、簡潔でいて、なんとも感慨深い言葉である。
日常に使う言葉一つをとっても、そこに深く参ずれば、既にそれが日本の精神となっている。
何ら意識せずに、当然の如く使っている言葉が、実は偉大なる真理を教えている。
これほど素晴らしいことはないではないか。
ヴァイツゼッカーは云った。
過去に目を閉ざす者は、未来に対してもまた盲目となる、と。
今に生きる我々は、この言葉を胸に懐いて、今こそ日本人たるその精神を自覚するべきであろう。
過去は決して見ぬべきものでも、価値なきものでもない。
自己に、国に、世界に、その進むべき道を指し示す、大いなる感激の源泉となり得るのである。
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