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安岡正篤を座右の書に

東洋宰相学

出版社: 福村出版 (2006/06)
本書は昭和二十三年に刊行された「政治家と実践哲学」を改題して復刊したものである。
史書や言行録を題材にしてその人物の事績を追い、その生き方とその信念を解きほぐし、人のあるべき姿を垣間見せ、その魅力を余すことなく伝える。
様々な人物の人としての魅力が躍動し、始めから終りまで楽しく引き込まれた。
安岡正篤氏は常々、宰相像をこう語っていたと云う。
宰相は、その位には淡々落々として、敬虔で私心がなく、自信を温容に包み、侵し難い威厳を備えながら、どこかユーモアがあり、しかも一抹の淋しさを含んでいる人物である、と。
その理想をそのまま全て含有する人物は過去の偉人を並べても余りに少ないが、この書の中で紹介される人物には、その一端を垣間見せる人物がやはり多い。
その筆頭はなんと言っても斉の晏子であろう。
安岡正篤氏は司馬遷が史記において晏子を絶賛した言葉を挙げながら次のように語る。
管仲も偉い。彼は尋常の型に嵌らぬ大人物であるが、孔子も激称しつつ、やはり覇者として賤しんだように、不純で厭味なところが多い。晏子は純高である。政治に志ある者は管子よりもまず晏子を知った方が好いと思う。彼のように人間味豊かな名相はシナ史上に類稀であると思う、と。
晏子といえば至純である。
誰もがその人としてのあり方に尊いものを感じ得るだろう。
だが、その故事を紹介され更に触れてみると、確かに人間味をも深く感じるのである。
不肖の君、不肖の妻、不肖の子が好いですなと語る、そんな晏子に安岡正篤氏は、ここに到って覚えず一笑を発すると云い、これで浮世が解決したような感がするではないかと云う。
晏子死去における主君・景公の描写と共に、この晏子の姿には、颯爽とした涼やかな風を感ずるのである。
至純であり厳にして愛せられ、ユーモアがありそしてどこか淋しさを抱く、安岡正篤氏の宰相像には、この晏子の姿がぴったりと当てはまる感がしてならない。
劉邦と秀吉などもユーモア・人間味溢れる英雄的政治家である。
ただ、彼らの場合の人間味は晏子のそれとは異なり、より俗に近いものがある。
彼らは私を去ることはできていないが、直諫されれば自らを振り返るだけの度量があり、一旦は腹を立てて感情に負けてしまうが少し立てば人情味溢れる決断をする。
安岡正篤氏はこの英雄的政治家の特徴を次のように語る。
創業の英雄は自ら型に嵌らぬ人物であるように、人に対しても形式ばらず、直に赤心を人の腹中に置く概があり、政治も簡にして要を得るのが常である、と。
そして創業の英雄が功業と共に注意せねばならぬのは教化の振興であるが、高祖も太閤もこの点には見識が及ばなかったとし、更に教育のあり方については、教育学問というものがまた大問題で、深く考えるほど人間というものはむずかしく、政治家の使命と責任は重大である。ただあくまでも功名心を戒めて、私心を去ることが正しい進歩の道である、と述べている。
本書ではこの私心など微塵もなくして、幾多の英傑が失敗してきた改革というものを見事に成功させた人物が紹介されている。
日暮硯で有名な恩田木工である。
王安石、水野忠邦の失敗例を前項で示しながら、安岡正篤氏は次のように賞賛する。
真実な意味で、前記のように革新政治を遂行することは失敗し易い。しかるにここに成功した革新政治の模範的実験ともいうべき一例がある。それはほとんど公式的単純さと精確さとを持つ点においてまた非常な妙味がある、と。
恩田木工が断行した改革は読んでいてなんとも爽快である。
何か特別なことをしたわけではなく、確かに人として当たり前のことを実行しただけなのである。
己を正しうして以て人を正す、ただそれだけであった。
誠を示して相手の誠を得、法で制御もするが、がんじがらめではなく人情というものを巡らせる。
安岡正篤氏は松平定信の改革において次のように指摘している。
改革は主として理性と意志とによるが、人間の放たれた感情は理性を好まない。これを融和して、感情を理性に従わせることは、よほど実生活に通じてゆきとどいた注意と技術とを要する。それを誤ると、感情は容易かつ執拗に反発し、裏切るものである、と。
恩田木工のあり方をみてみると、人情に沿って、そして自らが偽ることなく真実で向い、相手も真実で返すという互いの美しい姿があるのである。
安岡正篤氏はこのあるべき美しさを描いてから、政治への意識を次のように警告している。
政治が民衆的になるにしたがって、いつ頃からか、政治家といえば老獪さを創造するようになって、進んでは老獪性すなわち物事の真相を不明瞭にし、責任を曖昧にして、平気で自己を偽るばかりでなく、人をも何が何だか分からなくしてしまって、その間にさっさと事を運んでゆくような能力を好適な資質とするようになった。これは危険な、そして多くは堕落した考えである、と。
そしてこれを憂うる者は曽国藩を知ることによって信念を新たにすることができるとして、曽国藩の紹介が始まる。
これを読むと曽国藩の素晴らしさが余すことなく伝わってくる。
政治家として偉大であるという前に、人間としてあまりに素晴らしいのである。
敬虔で私心がない、まさにそのままの人物がそこにある。
本書では彼の日記が多数紹介されているのだが、それを読むと如何に自己に徹し、自己の成長を願っていたのかがよく分かる。
曽国藩は常に自らを省みて自らのあり方と理想との差異に苦しみ続けた。
日記が紹介されればされるほど、その苦しみの崇高さと、無念さと寂しさとが込み上げてくるのである。
安岡正篤氏は云う。
彼はいかなる場合も決して自己の優越を誇ったり、あるいは強いて他人に対して自己の優越を発見しようとしたことはなかった。彼は常に哀心より他人の偉大に感激し不断に自己の弱小を責めた。彼の生涯の工夫を約言すれば一「敬」字に帰した。彼は苦労を重ね、年をとるにしたがって、また功勲の高まるにつれて、なおさらその道徳的意識も鋭敏にされた。これは全く心ある人の深く傾倒すべき人格である、と。
安岡正篤氏は、常に「敬」こそが人としての根本であると説いていた。
この敬を、安岡正篤氏は曽国藩の中に認めた。
確かに曽国藩は人を敬し、己を敬し、それによって彼の人格としての高まりは最高潮に達した。
だが、終に彼が自己を掴む事はできなかった。
ここまで敬虔に願う人が、自得して道を楽しむまで至らなかった。
これを想うとなんとも無念で寂しい気持ちに陥いるばかりである。
曽国藩は四十九歳二月の日記にこう吐露している。
読書の道、朝に道を聞けば夕に死すとも可なりと謂うが、実に容易ならぬ工夫である。道を聞く者は必ず真に知って、篤くこれを信ずる。しかるに私は自分自身をすら信ずることができない。心に何らの把握がない。嗚呼私に何で道を聞くことができよう、と。
その苦悩、なんと偉大なものであろう。
安岡正篤氏は云う。
彼は人爵進むにしたがって、ますます恐れ慎んで天爵を修めた。そこに偉人と俗物との一線の分岐がある。彼は一身の出処経歴において、はなはだ明の王陽明と類似の点が多い。彼もまた頗る陽明を賛美している。しかし彼は事功においては遥かに陽明を凌いだが、道においてはとうとう陽明のごとく灑落になることができなかった、と。
曽国藩は道を希うも終に志半ばで逝った。
彼に足らなかったものは、自信を温容に包む、ただこの語のみであったのかもしれない。
先に、安岡正篤氏は宰相像として「その位には淡々落々として、敬虔で私心がなく、自信を温容に包み、侵し難い威厳を備えながら、どこかユーモアがあり、しかも一抹の淋しさを含んでいる人物」を掲げたと記した。
それは安岡正篤氏が理想とした人間としての姿であり、これを抱いて目指してこそ、人は道を楽しむにまで至れるのだと信じていたのかもしれない。

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