安岡正篤を座右の書に
知命と立命
出版社:プレジデント社(1991/05)
本書は講演や講話、そして機関紙に連載されていたものをまとめたものである。
口述の形で書かれているので読みやすい一冊であると思う。
本書は題名の通り、命を知り命を立てる、即ち、自らの人生を文字通り運命とするための人としてのあり方を説く。
安岡正篤氏は人がその人生を運命とするにはやはり学ぶしかないと云う。
学ぶというのは自反、つまり自らに反るということであり、自らを省み思索反省することによって人はその生に限りない創造発展を得る。
安岡正篤氏は云う。
自分に反るということは、心に反ることであり、心に反って考えると人は窮することはない。
人間ができていないと、情けないほど自主性・自立性がなくなって、外の力に支配される。
けれども本当に学び、自ら修めれば、そして自らに反って、立つところ、養うところがあると、初めてそれを克服していくことができる。
徹底して要約していえば「自反」という一言に尽きる。
己を知る者は、まず己でなければならないのである。
もし本当によく自分が自分に反って自立することができれば、それこそ永遠の存在、永遠の平和、永遠の確立というものがあるのだが、それがなかなか難しい。
せめて一人でも多くそういう人物が出れば、また、そういう信念、そういう学風、そういう躾、そういう傾向のものが広まってくれば、少なくともその国・民族は救われる。
これが人間の栄枯盛衰、民族の興亡の根本原理というものであろう。
そういう人物は、やはり教育の宜しきを得なくてはなかなか現れない。
その点に関して、安岡正篤氏は幕末、明治の人物を慨嘆して語る。
幼少年時代によく教育すると、十七、八歳で立派に人として大成する。
幕末、明治の人物はみな若くてよく出来ている。
二十代で堂々たる国士だ。
吉田松陰、橋本左内、高杉晋作、久坂玄瑞、こういう人々は枚挙にいとまがないが、みな二十歳前後で堂々たるものです。
どうしてあんなに若いのに大した人が多いのだろうと思っていたが、人間学というものを本当に研究してみると、あれは決して奇跡ではない。
当たり前のことなのです。
人間は教育のよろしきを得れば、知命、立命の教養を積めば、その人なりに大成する。
それから先はいろいろの経験が加わって鍛錬陶冶され、いわゆる磨きがかかるだけで、人そのものは十七、八歳でちゃんと出来る。
人がその成長を得るのに必要な学問とは何なのか。
安岡正篤氏は学問の根本的性質による一つの分類をすると三つに分けることができると云う。
知識の学問と智慧の学問では非常に違うのでありまして、知識の学問は、我々の理解力・記憶力・判断力・推理力等、つまり悟性の働きによって誰にも一通りできるものです。
子供でもできる、大人でもできる、善人もできる、悪人もできる。
程度の差こそあれ、誰でもできる。
その意味では、機械的な能力です。
しかしそういうものではなく、もっと経験を積み、思索反省を重ねて、我々の性命や、人間としての体験の中からにじみ出てくるもっと直感的な人格的な学問を智慧の学問といいます。
だから知識の学問より智慧の学問になるほど、生活的・精神的・人格的になってくるのであります。
それを深めると、普通では得られない徳に根差した、徳の表れである徳慧という学問になる。
これが聖賢の学であります。
単に学ぶといっても、知識の学では自ら命を運ぶことはできない。
我々が本当に学ぶべきは聖賢の学でなければならない。
安岡正篤氏は、ねじり鉢巻で試験勉強をするような頭の使い方、そういう知性はあまり価値がないと云う。
人生の体験を積んだ深い叡智にならねば、得られた智は単なる皮相であって何の感動をも与えない。
安岡正篤氏は云う。
人間には感動が一番大事。
我々の心の中に感受性があるということが大事である。
感受性というものはやはり自分が充実しなければ出てこない。
放心していたら、自分が自分を忘れていたら、疎外していたら、これはあるわけがない。
人は常に感動をもって素行自得でなければいけない。
その立場から遊離することなく、自分で自分をつかまなくてはいけない。
金が欲しいとか、地位が欲しいとか、そういうのは枝葉末節であって、本質的にいえば、人間はまず自己を得なければいけない。
人間はいろんなものを失うけれども、本当に一番失いやすいのは自己である。
人は根本において自分をつかんでいない。
そこからあらゆる間違いが起こる。
人間はまず根本的に自ら自己を徹見する、把握する。
これがあらゆる哲学、宗教、道徳の根本問題である。
人が自得に徹すれば無心である。
心無しではない。
雑念がない、散乱心がない、遊離心がない、無心である。
人はすべてに自然になればいいのである。
くだらぬものに執着しない。
地位や財産ばかりでなく、知識にも執着しない。
つまらぬことに気を散らさず、ただ一つ、精神の向上にのみ邁進すればいいのである。
その結果として、地位がついてくることもあろうし、金が自然とついてくるかもしれない。
自然にできるならそれはそれでよい。
そして、それも自然に散ずるのがよい。
これがいわゆる素行である。
安岡正篤氏は「命」についてこう説いている。
人生そのものが一つの「命」である。
その「命」は光陰歳月と同じことで、動いて止まないから、これを「運命」という。
結局のところ、我々の「命」をよく「運命」たらしめるか、「宿命」に堕させしむるかということは、その人の学問修養次第なのである。
人が本当に学問を積んだとき、人は真に自由であり大いなる可能性となる。
人は自己に徹することで運命として歩むことが出来る。
安岡正篤氏は誰しもがその可能性を持ち得ることを示唆し、その方向を指し示している。
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