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安岡正篤を座右の書に

人生、道を求め徳を愛する生き方―『日本精神通義』

出版社: 致知出版社 (2005/09)
この本に触れたのは私が安岡正篤氏の本を読み始めて半年経ってぐらいのこと。
正直、最初の取っ掛かりが悪い。
ある程度、他の安岡正篤氏の本に触れてから読んだほうがいいと思う。
自分が最初にこれを手にとって読んだとしたら、最初の一章で読むのやめる自信がある。
あまりに親しみづらい。
一般的な人にとって宗教云々なんて興味がないだろうし、安岡正篤氏の本を読もうと思う人の大部分にとっては、神道の成り立ちも、時代と共に儒教、仏教、キリスト教といった各宗教がどのように変革していったかも、どうでもいい話だろうと思う。
特に第一章は聞きなれない神々の名前が沢山出てくるので、耐える自信なければ飛ばした方が良いかもしれない。
尚、読み進めていくと何とも言い難い味が出てくるので安岡正篤氏の本に慣れている人なら一気に読めるとは思う。
本書の前半では宗教の腐敗とそれを切り開き、過去の偉大なる教えを継いで発展させていく幾多の傑物の姿を描いている。
空海曰く、
「今、あらゆる僧尼は頭を剃って欲を剃らず、衣を染めて心を染めず、戒足智慧は麟角りんかくより乏しく、非法濫行は龍鱗りゅうりんよりも多い。この現状では仏法は国蠧こくとであり、僧人は蠶食さんしょくにひとしい。」
道元曰く、
「諸方を見るに道心の僧はまれにして名利を求むる僧は多し。仏法を慕わず、一心に朝廷の賞をこいねがう。此類は皆誰か是れ仏祖、誰か是外道と云うことを不識しらざるなり。」
彼等の周りに流されることなく自らの信念を断行し成し遂げていく姿はやはり美しい。
そして、聖道門の本旨をこう紹介している。
「仏教は衆生をして迷妄を去って真実に就こうとする菩提心を発せしめ、人々悉有しつうの仏性を円満に発揮させることをもって目的とするが、その目的を果たすことは、畢竟ひっきょう、衆生自身の努力精進に待たねばならぬ。仏果は仏教によって衆生自ら証得すべきものであること、なお真理は師の教えによって生徒自ら理解するほかはない。」
何事も自らの精進なくして成ることはない。
きっかけを得たらあとは自分で自分を成長させるのである。
宗教という人間の成長を願う一つの思想に躍動する人々の姿を魅力的に描がきながら安岡正篤氏は云う。
「人は往を継ぎ、来を開くものでなければなりません。これ孝の大切な意味でありまして、人は自ずから祖先を崇敬し、子孫を尊重し、常に祖先を在り日さながらに誠を尽くして祭るものであります。」
人が往来するのが道であり、過去と未来を繋ぐ道である。
それを継ぎ、そして開いていく、まさに道である。
幾多の傑物が継ぎ切り開いていった精神を継ぎ、そして更に開いていかなくてはならない。
そして易、陰陽を用いて西洋と東洋を語り、安岡正篤氏は云う。
「陽の働きたる功名心、金・位・権力・事業なども良い。だが、それと同時に陰の働きたる隠逸心・内省心が発現しうまく調和して、しかも大きく我々に抱懐されればされるほど、その人は大なる人物になってゆく。もし功名心のみならば無秩序と破壊であり、隠逸のみならば社会が少しも発展しない。普通の人間は一見相矛盾するがごとき二つの魂を統一して大きく抱懐することができずに、そのいずれかに軽々しく偏して、意気地のない、あるいは杜撰な生活をしているものである。」
道というものは自由な造化力でなければならない。
できるだけ自由にものを包容して、それを新たに造化するのでなければ道ではない。
あらゆるものを深く蔵して感激をもって心術を練る。
そうであって人は成長していくのである。
安岡正篤氏は日本の文化発展と融合の観点から古よりそれがなされていることを説き、我々の精神にはそれを成すだけの力が宿っていることを示唆している。

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