安岡正篤を座右の書に
活眼活学
出版社: PHP研究所 (2007/5/22)
講演の口述記録を集めたもので読み易い。
人が本当に観るべきものは何なのか。
集団ばかりで個人を忘却する時代に憂え、安岡正篤氏は説く。
文明が発達するが如くに見えて、人間が無内容になりつつある。
テレビ、新聞、雑誌、スポーツなどというものに全部頭を支配されて、自分の思考力だの判断力だの批判力だのというものが全然なくなっている。
もう何の某というものは一つもなくなってしまって、全く感覚的な刺激に反応する一機関となるだけである。
そうならない為にはやはり自分を観なければいけない。
自分という存在を知らなければならない。
安岡正篤氏は云う。
「自分」というのは大変好い言葉であります。
あるものが独自に存在すると同時に、また全体の部分として存在する。
その円満無礙な一致を表現して自と分を合わせて「自分」という。
我々は自分を知り、自分を尽せばよいのであります。
しかるにそれを知らずして、自分自分と言いながら、実は自己、私をほしいままにしておる。
そこにあらゆる矛盾や罪悪が生じるのであります。
自分を知り、自分を尽す。
己が心の忘却ほど哀しむべきことはない。
安岡正篤氏は云う。
現代人は知性によって物を知ることしか知らぬ者が多い。
そしてそういう知識の体系を重んじ、知識理論を誇る。
しかしそういう知識理論は誰でも習得し利用することができる。
その人間の人物や心境の如何に拘らず、どんな理論でも自由に立てることができる。
平たく言えば、つまらぬ人間でも大層なことが言える。
どこを押したらそんな音が出るかと思われるようなことも主張することができる。
そういうものは真の智ということはできない。
真の智は物自体から発する光でなければならない。
自我の深層から、潜在意識から発生する自覚でなければならない。
これを「悟る」という。
従って「悟らせる」「教える」の真義は、頭の中に記憶したり、紙の上に書きつけたものを伝達することではない。
活きた人格と人格との接触・触発をいう。
撃石火の如く、閃電光にひとしい。
これあるを得て、初めて真の霊活な人物ができるのである。
つまり全生命を打ち込んで学問する。
身体で学問すると、人間が学問・叡智そのものになってくる。
活きた人格と人格の接触。
これはまさに魂の共鳴である。
その人の生死を問わない。
死して朽ちず。
死して猶、人を活かす。
たとえ、直接その人に触れ得ずとも、魂のこもったその言行ならば、感じとる部分が大いにある。
だからこそ、過去の偉大な人々に、今を生きる我々は学ぶ価値がある。
安岡正篤氏は魂の感動に基づかねば真の生命を得ることはできないと云う。
魂に感動を抱かせるものは、やはり、魂より発せられたものだけである。
単なる皮相な知識、理論では得られない。
その人の根底より湧きでる信念・思想こそが人を感動させるのである。
宗密禅師は、犯人隠匿のかどで死刑を以て脅迫された時、平然としてこう言ったという。
「自分は李訓と長い交友である。吾が法は難に遇う者あれば之を救うのが眼目である。そのためには死もまたやむを得ぬ。」
人は何を信じ、何を大事とするのか。
法が吾が法と一致せぬとき、自らの信念と異なるのであれば如何ともし難い。
そして、その動機に私が存在しないのであれば、その姿は、なんとも美しい。
安岡正篤氏は人のあるべき姿をこう述べている。
人は一の自然である。我々は自然の如く真実でなければならぬ。
自然に帰ればより光明であり、静寂であり、正直である。
人間はやっぱり常に自然に帰らなければならん。
自然の真理、それが人間に教えてくれる摂理というものを見失ってはいけない。
そして最後にこう結ぶ。
我々のささやかな一燈は一隅を照らすに過ぎぬものであっても、千燈萬燈と遍照すれば、國を照らすことを確信する、と。
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