安岡正篤を座右の書に
日本精神の研究
出版社: 致知出版社 (2004/12)
本書は安岡正篤氏が二十六歳の時の作品であるという。
まず、読み始めて感じることは晩年の作品から感じられる温かさの代りに、若き日の熱烈な魂がひしひしと伝わってくることである。
それだけにこの書を読むのには少々骨が折れるかもしれない。
自らの伝えたいこと、自らの抱いている気持ちをひたすら書いている。
だから相手を教え諭すのではなくて自らの思いをぶつけてくるような感を受ける。
これは、共感できる人にはとても爽快である。
逆に理解しようとする人には、その力に導かれてゆく場合と拒否感を感じてしまう形とに分かれるかもしれない。
安岡正篤氏は新装刊行に当って「私自身は疾くからこの書に種々
ただ間違いなく言えることは、晩年の講和集などにおける話と重ねてみても、その主張する根本的な内容においては修正すべき点は何一つない。
ちなみに天皇とかを論ずる部分に関しては、いまいちピンとこないというのが正直な感想である。
この部分に関しては、いいとか悪いとかではなくて、私には純粋にわからないのである。
本書は日本精神の研究と題されているように、日本という国の歴史文化からこの国自身の人格と、古来の偉大なる人々が培ってきた精神とを論じ、我々一人一人がどうあるべきかを呼びかける。
冒頭に云う。
神秘な造物者は自然を造って精神を
この言に誘われるが如く熱烈なる叙述が始まる。
現代は人間性が乏しくなったと言われるが、過去においても平和を享受すると共にやはり人間は堕落していたようである。
それを安岡正篤氏はこう論じている。
私は今、髣髴として徳川幕府の興亡に憶う。
凡そ文明が爛熟し、人間精神が弛緩して来ると、必ず先ず人間の姿態が頽れ、一体に風俗が惰弱に為り、華奢を誇るものである。
浄瑠璃に芝居に文学に、蕩々として性欲生活、恋愛問題が主材となっていった。
性欲的頽廃は必ず人の根本たる活力を喪ぼし、随って次第に人間を惰弱卑怯に陥れ、道義的精神を沈淪せしめて、経済的にもまったく窮迫させてしまう。
この江戸時代の衰亡の記述、そしてその後に記される平安朝の公家の遊楽の記述、まさに現代の風潮をそのまま当てはめたような描写である。
太公望は敵を謀るにこう云ったという。
利を好む者には財珍を与えて此れを迷わし、色を好む者には美女を与えて是を惑わせ、と。
これを思えば、現代人は誰に惑わされているのだろうかと思案せざるおえない。
安岡正篤氏は云う。
現に今の風俗好尚は余りに華奢繊細ではないか。男子に意気も張りもなく、質朴簡素の体を去って浮華軽薄を極めて居る。風姿も剛健端荘という趣が失せて、一般に絵画や広告が表す通り、線の細く弱々しいのが現代式である。
女はまた奥床しいたしなみを一般に失ってしまって、街を通るにもあさましく感ぜられる程濃厚な作りに、締まりの無い身ごなしで、無恥無節操を曝け出して居る者が随分多く見受けられる。
そして更に述べるに、現代人の最も大なる禍とするところは人間の機械化による人格の破綻であり、本来は人格というものは知と情と意の渾然たる統一と発達であるのに、人間の機械化によって人格は物格化してしまったとして、人が真に人たるにはこの機械的な風を去って人格を統一へと促がしてゆくようにしなければならないという。
そして、この統一こそが久しく忘却されつつある真の東洋の思想、儒仏老荘でありインドのガンディズムであり、この精神を各々が体現することで人格の統一と共に真の自由を得るとして、これを次のように述べている。
自由を求めること、これ即ち現代精神の眼目である。
然しながら其の自由の意義を現代人は果たしてどれ程まで正しく理解しているであろうか。自由とは、彼等は答えるであろう。自己以外の何物にも束縛されぬことであると。一応真理であるけれども更に問う、自己以外の何物にも束縛されぬことは具体的に説明すれば如何なることか。答えは言うまでもない。あらゆる政治的経済的圧迫や在来の宗教道徳の因習的束縛から解放されることである。
然るに此の答は頗る曖昧であるといわねばならない。何となれば、若し単に外物よりの解放を以て自由というならば、人間は殆ど物であって、人格ではない。
束縛ということは要するに一事実の一面に過ぎない。束縛ということを内面的に見れば、それは屈伏である。随って真正の意味に於ける解放は、同時に排脱でなければならない。この意義に於いて私は、解放とは自由の客観的物格的用語であって、排脱が其の半面なる主観的人格的用語であるとも考える。そこで自由の意義も亦自ずから説明が異ならねばならない。
自由とは自己の行為が自己の人格に其の原因を有し、何等他に律せらるることなき状態を謂う。
人々は自由を叫ぶが、その見ているところは往々にして外物からの解放だけである。
だがそれだけでは真の自由とはいえない。
この外物からの解放と共に自己の人格の高まりがあってこそ真の自由なのであり、崇高な各々の内面生活に対する自覚、不断なる「如何に生きるべきか」の磨練、禅家にいう「随処に主となる」ことによってこそ、その人格が自由を形成するのである。
武士は平生に於ける死の覚悟によってその生を愛し、そして妄念をさって真の自己へと到達した。
この真の自己へと達したとき、人は誠であり仁であり勇である。
安岡正篤氏は吉田松陰、楠木正成、大塩中斎等、その自己を見つめ天下をみつめ死を覚悟して熱烈に生きた様々な武士を描き、そしてインドのガンジーの信念へと話は及ぶ。
ガンジーは云う。
ある人が非暴力主義であるという時、その人は如何なる人物でなければならぬか、その人は自己を傷つけた者を悪まぬ筈である。その人は彼の不幸を望まず、却ってその幸福を祈る。その人は決して彼を呪うことをしない。彼に肉体的苦痛をも与えない。其の人は悪逆者に依るあらゆる悲運に忍従してゆく。かくて非暴力は完全に無害である。完全なる非暴力は衆生、諸々の生あるものに対して
ガンジーは無抵抗主義について「悪魔の意思に柔順しく屈服することをいうのではない。人間の全霊を提げて暴君の意思に抵抗し挑戦することである」と語っていたという。
ガンジーのこの無抵抗主義は仁であり、誠であり、そして真実の意味における勇である。
如何なる場合も悪者を憎むことはない。
悪者の全てを包み込んで、その悪を善へと還すのである。
安岡正篤氏は云う。
この全生命に対する善意、仁が即ちアヒムサの本質である。この本質のないアヒムサは最早アヒムサではない。単なる不殺生という形式に過ぎない。そしてこの単なる空殻の中へ往々にして色々な悪が寄生するのである。
真のアヒムサ、非暴力主義の精神は充実した活力である。所謂天地の間に塞がる浩然の気でなければならぬ。そこには最早我に敵対するごとき相対物は存しない。古語にも仁者無敵という。ガンディも「アヒムサの基礎的性質に注意して貰いたい。私は『諸君の敵であると諸君が考える人に』とは云わないで、『諸君の敵であると諸君が勝手に考えている人に』という。何となれば、アヒムサの教義に従う者に取っては、敵なるものの這入る余地が無いのである」と説いている。
さればこそ如何なる苦痛も迫害も之を忍受することが出来るのである。また忍苦の意義があるのである。厳密にいえば、それは最早忍苦というが如き不完全な状態ではなくて、もっと「完全なる状態」である。
我々は人間から悪を排斥せんと願う心の切なれば切なるほど、愈々是の如き頑悪を其の人から取り去ってやらねばならなくなるであろう。是の如き頑悪に陥れる人が不憫でならなくなるであろう。仏は、キリストは、否あらゆる祖師は皆、この有難き心に活きた人々であった、と。
悪を拒否するのは当然であり、拒否したからには悪と戦うのである。
悪と戦って悪者の悪を除かんとする、これが愛でなくてなにであろうか。
悪の悪をそのまま許すのは愛ではない。
それは妄従である。
真実の愛はその悪を正すことにある。
これは仁である。
相手の悪を受け止めて包容し、その上で戦うのである。
あらゆるものは矛盾のようで矛盾ではない。
やはり一なのである。
武士道は古来、最も敵の人格を尊重したという。
ガンジーのそのあり方にもまた通ずるものが大いにある。
これは古今東西、いかなる場所いかなる時代における哲人と称すに相応しい人々に共通する真理である。
安岡正篤氏は云う。
人は何よりも先ず自己及び人生に対して誠でなければならぬ。厳粛でなければならぬ。そして実際行為に就いての善悪の正しい批判、純な情操を要する。悪を悪とし、悪を悪む厳正な批判、純直な情操が無くて、如何にして善を愛し善を行うことが出来るか。善を愛することは即ち悪を悪とし、悪を悪むことである。善を行うと同時に悪を排脱することである。かつ真に愛するとは能くその対象と一になることでなければならない。善を愛するとは畢竟悪を排脱することである、と。
日本に伝わる三種の神器、それらは人のあるべき姿・日本民族の精神生活の綱領を実に善く表していると云う。
誠より発する智慧である鏡、穆たる仁愛である玉、そして矛盾統一を達する勇である剣、これらは人の根本精神である。
日本という国、そして日本人という民族の精神性は、遥か古代より連なる崇高なる道を有しているのである。
遥か昔、日本に布教に来たフランシスコ・ザビエルは、日本人の霊性に感嘆して、ロヨラにこう記したと云う。
日本という国は、絶対の真理のほかには断じて服せぬ民族である。将来、日本に派遣する宣教師は、必ず徳も学も深い、教団屈指の人物でなければならぬ、と。
我々は外に求める必要はない。
我々の真に求めるべき姿は、我々自身のすぐ近くに自ずとあるのだから。
- 関連タグ
- 安岡正篤
<< 前のページ | ランダム | 次のページ >> | |